プロから“サラリーマン選手”へ J通算435試合出場の小林祐三がアマ転向を決めたワケ
プロサッカー選手という肩書に未練はない
現役時代の写真を振り返ると、金髪や銀髪といった派手な髪色が目に留まる。2010年にコンバートされてからは右サイドバックが主戦場となった。持前のスピードとスタミナでサイドを駆け上がる攻撃的スタイルでファンを沸かせた小林祐三氏が「THE ANSWER」の取材に応じた。
柏レイソル、横浜F・マリノス、そしてサガン鳥栖でプレーし、昨シーズンを持って17年間のプロサッカー選手人生に幕を閉じた。と同時に、アマチュア選手としてプレーを続けていくことも発表された。前後編でお届けする前編は「プロとアマチュア」。サッカー界では珍しいプロ選手の引退後に選んだアマチュア選手としての道について、小林氏の考えを聞いた。(文=藤井雅彦)
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Jクラブが続々と新シーズンを始動し、キャンプインしていく1月のある日。小林祐三は新調したばかりのスーツとネクタイを着用し、オンラインミーティングを重ねていた。本来ならば革靴を履き、初めて手にした名刺をクライアントに手渡しているはずが、政府が発令した緊急事態宣言の影響でテレワークに切り替えざるをえなかった。
高校サッカーの名門・静岡学園卒業後に柏レイソルでプロキャリアをスタートさせ、以降は横浜F・マリノスやサガン鳥栖でプレーした。プロ生活17年間でJリーグ通算435試合出場という輝かしい実績を持つDFは、昨年12月にプロサッカー選手引退を発表。同時に第2のサッカー人生として関東サッカーリーグ1部のクリアソン新宿を選んだ。
サッカー界において、一風変わったセカンドキャリアへ進む理由をこう明かす。
「34歳(当時)の自分が、Jリーグという舞台でこれからもプレーする姿を想像できませんでした。これは決して強がりではなくて、具体的にイメージしてチャレンジすることが難しかった。去年の夏くらいまでは、例えばカテゴリーを落としてピッチ上で自分のプレーを表現してからやめたいという葛藤や自分の心の中での綱引きもあったけど、ある日起きた瞬間に思ったんです。『あ、やーめた』って。プロサッカー選手としてプレーしていたらずっと悔しいことがあるし、選手として表現したいと思い続けるでしょう。でも、違うことをやったみたいという欲求に蓋をしてまでプロサッカー選手を続ける自分は想像できませんでした」
Jリーガー以外の未来像を描き始めたのは横浜Mに在籍していた20代後半の頃から。プレーヤー小林が心身ともに充実していた時期で、チームは2013年にリーグ優勝争いの主役を演じ、14年元日には天皇杯優勝を成し遂げた。
「日本屈指のレベルでサッカーができるのはとても楽しくて、僕は心の底から誇りを持ってプレーしていました。それが持っていた不安をかき消してくれていたんです。でも30歳を過ぎてからはだんだんと隠し切れなくなって、自分がいろいろな学びを得れば得るほど、違う世界を見たいという気持ちが強くなりました」
プロサッカー選手という肩書きやJリーグという舞台に未練はない。Jリーグ通算435試合、そのうちトップカテゴリーであるJ1での試合出場は365試合を数える。「数字だけを追い求めてやってきたわけではない」と前置きしつつも、「概ね満足しているし、立派な数字だと思います。数字や記録は消えないし、プロからアマチュアになったからといって出場試合数を減らされるわけではないですから」と茶目っ気たっぷりに笑った。
第2の人生として選んだサラリーマンとアマチュア選手
新たに所属するクリアソン新宿は火曜日、水曜日、木曜日の業務終了後、19時から21時までが練習と決まっている。休日は土曜日を練習日として、主に日曜日が試合だ。そのため月曜日と金曜日はボールに触れることなく1日が終わる。自前のグラウンドやクラブハウスがあるわけではない。区内にある人工芝のグラウンドを時間単位で使用している。語弊を恐れず言えば、環境や設備はアマチュアのそれで、これから未来へ向けて発展していくサッカークラブだ。
しかし小林に戸惑いの色は全くない。すべては承知の上で選んだ道である。サラリーマンとして業務を行いながらサッカーボールを蹴る日々は「めちゃくちゃ楽しい。ここ数年では断トツに楽しい」と目をキラキラ輝かせた。
「Jリーグの、特にJ1という最も高いディビジョンでプレーし続けることには価値があるし、それを否定するつもりはありません。僕自身、高みを目指していく過程でまるで化け物みたいな外国籍選手と対峙し、自分を成長させることができたと思っています。ただ今は違った角度からの成長や追求もあるのかなと。
例えば、出し手と受け手の関係性の中で、プロの世界で通っていたパスが通らない。そうなった時に、どうしたらパスを通せるようになるのか。あるいは守備でのコーチングも、どういった声かけやフォローをすれば仲間を効果的に動かし、チームを優位な状況に導けるのか。すべて考えて、アプローチを変える必要があるんです。そのためには新たな環境で自分が成長し、追求しなければいけません」
それにしても日本サッカーの第一線でしのぎを削ってきた男である。カテゴリーを下げることで物足りなさを覚えてしまうのではないか。そんな危惧も独特の言い回しで一蹴する。「いずれそういった波がやってくると思っていますし、それはある程度視野に入れています。そうなってしまう自分も許容しながらも、その後に何ができるかというサイクルに入っていくことが大切です」と明確に見据えていた。
サッカーは業務の一環で、報酬はない。あくまでもサラリーマンとして給料を受け取っていく生活が始まった。若くして成功を収めたプロアスリートならば、収入だけを比べた時に同年代で一般企業に勤める人間よりも上だろう。分かりやすい評価のものさしで、夢と可能性を示す意味でも相応のサラリーを受け取るべきという考え方もある。
生きていくうえで、もしくは家族を養っていくために、お金は必要だ。誰もが抱えていく永遠のテーマについても独自の見解を示す。
「40歳までを考えたら、もしかしたらサッカー選手のほうがサラリーは多いかもしれません。僕は5年くらい先の未来を考えて、今だから得られるストックがあると思っているし、それは無形資産と言えばいいのかな。サッカー選手は逃げ切り思考が強いと感じていて『いつまでにいくら貯めていたほうがいい』みたいな発想を持ちがちなんです。でもプロの世界を退いてからも僕はすごく楽しいので、もしかしたら引退するのが遅いくらいだったかなと(笑)」
新鮮な毎日にドキドキワクワクが止まらない。その空気感を一切隠そうとはせずに、むしろ発信している。
できない自分を認めてできるようになっていく楽しさ
現役当時からクリアソンの事業に関わり、例えば大学生の就職活動に関する研修に現役アスリートとしてゲスト参加していた。それはあくまでも外部の人間として携わっていたわけで、今年からは実際に中に入って仕組みを学んでいる。「サッカーにたとえると試合だけをやっていた感じですよね。そこに至るトレーニングや運営といった本当の意味での事業を勉強しています」。今後は演者として舞台に上がっていたからこその視点や発想が生かされていくはずだ。
小林がDJを始め、多趣味で多才なことはサッカーファンの間ではお馴染みだろう。しかしながら「エクセルやパワーポイントは全くの素人で、ゼロから覚える苦労があります」と額の汗を拭う。そして、それすらも「できないことを自分自身が認めて、できるようになっていくのは本当に楽しいですよ」と今の自分に胸を張る。
新しいモデルケースになりうる歩みを、自身でどのように評価するのか。
「Jリーグでプレーしていて、今をものすごく楽しんでいる選手はあまりいないような気がしていて、みんな引退後の不安を抱えています。しかし、さらにそこから指導者やタレント、最近だとYouTuber、あるいは起業家を目指すしかないとすると、さらに大変な道だと思います。
だから僕がやっているのは思ったよりも普通のことで、開拓者を気取るつもりはありません。ただ自分くらいのキャリアを持った人間が素人に戻れる感覚があってもいいのかなと。“小林祐三”という看板を下ろして素人になれる環境を求めてきたから、今が本当に楽しい」
Jリーグの場合、年末年始はオフシーズンのため選手の移籍話が飛び交うが、小林は「このオフに誰がどこに移籍したとか、ほとんど知りません。1月下旬だと、どのチームもキャンプインしている頃で、すごく楽しかったです。でもプロとしてキャンプを17回も経験させてもらったから、満足です」
今はエクセルとパワーポイントの習得に励み、それが終われば夕方からサッカーボールを蹴る。クリアソン新宿でのポジションは「右サイドバックか、3バックの右です」と慣れ親しんだ定位置だ。
小林祐三の新しい日常が始まった。(文中敬称略)
[プロフィール]
小林祐三
1984年11月15日、東京都生まれ。5歳でサッカーを始めると、プロサッカー選手になることを夢見てサッカー処、静岡の静岡学園高校に進学。2004年に念願叶って柏レイソルでプロデビューを飾る。2011年に横浜F・マリノスへ移籍、2017年からはサガン鳥栖でプレーし、昨シーズンを持って17年間のプロサッカー選手としての人生を終えた。2021年1月、株式会社Criacaoへ入社。同時に、関東サッカーリーグ1部に所属するクリアソン新宿でアマチュア選手としてプレーを続けている。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)