原田龍二、“逮捕と3度のがん” を乗り越えた鈴木宗男の「人間力」に感服
─全裸で自らと対峙する漢、原田龍二。飾らない彼の姿が多くの視聴者から支持を集めていた矢先、ひとつの過ちを犯してしまう。そんな原田が自身に喝を入れるべく、さまざまな人と語り合う本企画。第3回のゲストは、参議院議員の鈴木宗男だ。波瀾万丈な人生を歩む鈴木が原田に語る“人生論”とは!
鈴木宗男、人生3つの“坂”
鈴木 原田さんといえば俳優で活躍されてるイメージしかないんだけど、何かあったの!? まあ、私が知らないってことはたいした不祥事じゃないよ!
原田 実は昨年、女性関係で不祥事を起こして、多くの人に迷惑をかけてしまったんです。そこで、人生の先輩方に喝を入れていただこうと、鈴木先生のもとに馳せ参じました。
鈴木 なるほど。そりゃこんな男前だもの、モテるわな! いまおいくつですか?
原田 48歳です。
鈴木 まだまだ若いですね。人生は上り坂もあれば下り坂もあります。そしてもうひとつ“まさか”という坂があるんですよ。私は北海道足寄町の農家に生まれ、中学生のころには政治家を志していました。
大学入学と同時に中川一郎先生と出会い、35歳のときに衆議院議員に初当選して、49歳で国務大臣、50歳で内閣官房副長官。ずっと休みなく働きづめの生活で、政治家として出世コースを邁進していたんです。しかし、政治の世界の権力闘争に巻き込まれたのが、人生の大きな“まさか”。
原田 確かに、当時、鈴木先生は国民の注目の的でしたからね。
鈴木 自分の信念を貫いた結果、刑務所まで行きましたからね。私も原田さんの10分の1でも男前だったら、世間から叩かれなかったかもしれませんが、この顔ですからね(笑)。ただ、どんなことがあっても、私はずっと「絶対に諦めない、生きていれば逆転もある!」と自分に言い聞かせてるんですよ。
あえて“顔を見せない”励まし方
原田 鈴木先生ほどの苦汁をなめてはいませんが、僕も自分自身を叱咤激励するように心がけています。
鈴木 私からしたら、不倫できるなんてうらやましい話だけど、勝新太郎さんの時代ならともかく、今はすごく厳しいからね。奥さんは怒ってる?
原田 怒ってはいましたが、妻はとても寛大な女性なので離婚せずにすんでいます。妻には本当に感謝しかないです。
鈴木 それは奥さんに感謝しないとね。私が今も生き延びていられるのも、家族や友人のおかげですから。
原田 やはり、ご家族が支えになったんですか?
鈴木 女房は常に凛としている女性でね。私が逮捕されるときも「とにかくあなたは戦いなさい。私たちのことは心配ないから」と言って送り出してくれました。彼女はずっと強い覚悟を持って政治家の妻を務めてくれています。実は、私が勾留されているとき、女房は1度も面会に来なかったんです。
原田 えっ! 1度もですか?
鈴木 それが夫婦の絆なんですよ。彼女は私が情に脆いことを知っているから「家族の顔を見たらほだされてしまい、検察とも妥協してしまうかもしれない。ならば、顔を見せずに励まそう」というのが、女房の考えでしたから。
原田 もしかして、お子さんにも会えず……?
鈴木 はい。私が逮捕された当時、15歳の貴子はカナダに留学していました。日本の外にいて情報が得られない状況で父親が逮捕されたなんて、娘が精神的に不安定になるかもしれない。それが心配だったんです。
原田 わかります。僕も自分の不祥事によって子どもたちに精神的な負担をかけてしまったことが、本当に申し訳なく感じているので……。
鈴木 検察も私の弱みにつけ込もうと「娘さんが帰国してるそうですね。特別に娘さんに面会してもいいですよ」と揺さぶりをかけてきたんです。私も娘に会いたかったので、女房にお願いしたのですが、面会させてもらえませんでしたね。
原田 最愛の娘に会わせないことが、夫を守る術だと。鬼の決断ですね……。
鈴木 それこそが、女房なりの思いやりだったんですよ。
原田 それでは、娘さんとはまったく交流できなかったんですか?
鈴木 実は、私が勾留されている間、毎日、議員会館に娘からのFAXが届いたんです。「私のことは心配しないでください。お父さんは自分の歩いた人生を絶対に否定しないでください。お父さんほど公のために働いた人はいません」という内容でね。本当に勇気をもらいましたね。
原田 どれくらいの間、勾留されていたんですか?
鈴木 437日。衆議院議員としては戦後最長です。
原田 すごいですね!!
鈴木 でも今では、戦ってよかったと思ってるんですよ。私が戦い続けたことで「この事件はおかしいぞ」と、世間の見方が少しずつ変化していったんです。何事もブレずにいると、誰かが認めてくれるんですよね。
収監中に起きた転機
原田 さまざまな苦難を乗り越えて、政界への復帰を果たしているのは本当にすごいですよね。刑務所に収監中から今後のことを考えていらしたんですか?
鈴木 実は、私が収監されている最中に政界へのカムバックを強く志す出来事があったんです。それは2011年3月11日に発生した「東日本大震災」。その日私は、栃木県喜連川にある刑務所で業務を行っていました。栃木は震度6だったのですが、今まで体験したどの地震よりも強い揺れでしたね。翌日にはリアルタイムでテレビを見ることが許されました。
そこに映っていたのは、大きな津波に流される人々の姿。お母さんが一生懸命、子どもに手をのばしても、津波によってふたりが引きはがされる……。なんてひどいことだと涙が出てね。
原田 (涙をこらえる)
鈴木 ここにいては何もできない。どうにか刑務所を早く出て、みなさんの力にならねば、と思ってから一気に吹っ切れたのを覚えています。東日本大震災は私のターニングポイントのひとつです。
原田 鈴木先生の人生には、ターニングポイントが何度も訪れているんですね。
鈴木 ターニングポイントはほかにもありますよ。まずひとつは、私が秘書をしていた中川一郎先生が亡くなられたとき。
次が逮捕されたときで、もうひとつが保釈された直後に胃がんが見つかったとき。2年ぶりに検査をしたら、スキルス性胃がんでステージ3という診断が出ましてね。翌月には選挙を控えていたので出馬するつもりでしたが、娘に止められて諦めました。
手術直後、主治医に「がんの転移はない」と言われ、女房はとても喜んでいました。一方の私は「それなら、選挙に出ておけばよかった」と呟いてしまい、女房にピシャッと叩かれたらしいんですよ。私は麻酔で朦朧としていて覚えてないんですけどね(笑)。
原田 ハハハ(笑)!
鈴木 ただ、がんになったことが一概に悲劇とは言い切れないんですよ。権力闘争に負けた鈴木宗男が、今度は病気に追い打ちをかけられたという同情の声が聞こえるようになったんです。
原田 ゆるぎない信念が周囲に伝わったんですね。
鈴木 その後2回もがんが見つかりましたけどね。でも、なんとかなっちゃった(笑)。
私は逮捕や病を経験して、気がついたことが3つあります。ひとつは、自分の信念を貫き通せば、誰かが見てくれること。ふたつ目は、家族や友人、応援してくれる人の大切さ。最後は“目に見えない力に生かされている”という感謝の気持ちを持つこと。
お天道さまは努力している人を見てますからね。原田さんも「原田がんばれ」と言ってくれる人を大切にしていれば、きっとこれからも心配いりませんよ!
原田 先生の人生には、かなわないですが……。素晴らしいアドバイス、ありがとうございます!
本日の、反省
鈴木先生の経験からくる言葉のひとつひとつに深みと重みがあり、心にしみ渡ってきました。人間力がある鈴木先生だからこそ、想像を絶する苦難を乗り越えられたように思います。負の試練が与えられてマイナスに落ちる人もいれば、自分の力でプラスにもっていける人もいる。鈴木先生は間違いなく後者ですよね。何より、自分だけをよりどころにせず家族や友人への感謝を忘れない姿勢は本当に素晴らしいです。ファンになりました!
はらだ・りゅうじ
1970年、東京都生まれ。第3回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで準グランプリを受賞後、トレンディードラマから時代劇などさまざまな作品に出演。現在は俳優業にとどまらず、バラエティーや旅番組に多く出演し、活躍の幅を広げる。芸能界きっての温泉通、座敷わらしなどのUMA探索好きとしても知られている。
すずき・むねお
1948年、北海道生まれ。1970年に拓殖大学政経学部卒業。在学中から中川一郎衆議院議員の秘書を務め、1983年に衆議院議員初当選を果たし、さまざまな公務に尽力するも、2003年にあっせん収賄罪で逮捕されて世間をにぎわせた。2019年に参議院議員当選し、9年ぶりに国政復帰。北方領土問題に精力的に取り組む。長女は鈴木貴子衆議院議員。
取材・文/大貫未来(清談社)