「君たちはどう生きるか」に学ぶ深いコミュニケーションのこころ/内藤 由貴子
◆ 「君たちはどう生きるか」は、実に深いコミュニケーションを学べます
今さらですが、昨年「漫画 君たちはどう生きるか」が出版され、原作もベストセラーになっています。
私は小学生の時、学級文庫にあったので読んだことがあります。
もう数十年前ですので、著者の吉野源三郎さんの名と主人公のニックネームがコペル君だったこと以外、ほとんど忘れていました。
そこで遅ればせながら、この本を改めて読んでみました。
新しく気づいたのは、この本がコミュニケーションの本質を突いた素晴らしいことを伝えていることです。
11/26月に投稿した拙文「話したいなら、聴くことでコミュニケーションがうまく行く」の記事の内容の素晴らしい実例です。
その時、概要に書いたのは、
「聴くことから起こることは、相手の考えや世界を理解できるだけではありません。 実は自分自身の世界への気付きになります。
よく聴くことが、相手の世界に相対する自分の世界を照らし出します。それによってコミュニケーションは、自分自身の世界をもっと広げてくれるのです。」
その実例を挙げてみましょう。
*漫画版と原作の両方を読んだのですが、漫画版を基準にさせていただきます。
◆ 主人公コペル君と叔父さん
この物語で主人公コペル君の叔父さんは、亡くなる少し前のコペル君の父親に「息子に立派な男になってもらいたい」と依頼されました。
叔父さんは、コペル君の父の願いを意識して、彼と対話し、伝えたいことをノートをつづっていきます。
コペル君がそのノートを読むのは、リアルタイムではなく少し後になります。
そこには、互いに成長していく内容がありました。
「互いに」と書いたのは、叔父さんがコペル君の成長を助けているのはもちろんですが、実は叔父さんもコペル君を通して、成長しているのです。
この物語の登場人物、コペル君と学校の友達との交流の中での成長、その成長を助けつつ、叔父さんもまた、他の登場人物から刺激を受けて、意識が変化していきます。
叔父さんとコペル君が銀座のデパートの屋上に行った時、下に見える小さな人たちを見て、コペル君は「ほんとうに人間って分子なのかも」と感じて叔父さんに話します。
叔父さんは、そのことが「自分中心の視点ではなかなか気づけないことで、それは天動説から地動説への転換のような視点だ」と思い、彼をコペルニクスに因んでコペル君と呼ぶようになりました。
コペルニクスの時代は、天動説しかありえませんでした。そこに地動説を唱えて、信念を通したコペルニクスからそのニックネームになりました。
後にノートを読んで、彼は「叔父さんは、大人になっても、天動説のように自分中心に世界が回っているのではないことを忘れないでほしいからだ」と、ノートから受け取りました。
叔父さんは、コペル君が「人間は分子」と語れたことに感動をするのですが、彼に伝えたい事柄も、また彼が語った言葉から刺激されて、叔父さんの中でイメージが広がった世界なのです。
つまりコペル君とのコミュニケーションを通じて得たことから叔父さんの思考もまた、整理され発展しました。
◆ 関係性が自分自身を磨く
さて、手前味噌ですが、私が代表をしている「一般社団法人 フラワーフォトセラピー協会」では、学ぶ人たちに初級の頃から、「関係性自我」のことを教えています。
関係性自我をググってもこの5文字言葉では出てこないのですが、現協会長が作った言葉だからでしょう。
私たちはそれぞれ、誰かとの関係の上で存在しています。私がいてあなたがいます。
あなたから見れば、あなたが「私」で私は「あなた」なのですから、これだけでも「私」は「あなた」との関係で成り立っていることに気づきます。
コペル君は、叔父さんから人間分子論のような発見を「決して小さな発見ではない」と認めてもらえたことで、自分が持つ世界観を叔父さんによってよりクリアにすることができました。
認められたことは、自分の世界を「理解されたこと」です。真に理解されると人は「愛」を感じます。
さらに叔父さんもまた、先ほど書いたように、自分の世界観と繋げられました。叔父さんもまた、コペル君に理解されていくからです。
コペル君はもちろん、叔父さんとのやり取りで、自分の世界を広げ成長させ、コペル君は、さらにコペル君自身の世界が磨かれ深められ、もっと自分らしくなっていきます。
そして、叔父さんにも、相手が子供とはいえ、同じことが起こっていると言えます。実際にコペル君の貧しい豆腐家の友人、浦川君のことを語るコペル君に刺激を受けたと言う件も書かれています。
叔父さんもまた、彼を通して何かを得て、意識が広がっていくのを感じます。
◆ 人と人との関係が新たな自分を作っていく
コペル君の父親は叔父さんに、入院中に知り合った少年のことを話します。
その少年は退院しましたが、父親は彼と話すことで、励まされると同時に、苦しかったと叔父さんに打ち明けます。
なぜなら、その少年の年代の子たち、そして自分の息子に、もっと伝えたいことがあったのに、叶わない無念さ、し残したことに気づいたからです。
父親もまた、入院中の少年との対話を通して、し残したことに気づかされ、最後の思いを妻の弟に託したのです。
その少年との対話から得た大きなものは、最後にし残したことへの気づきとなって、父もまた、漠然とした思い残しではなく、残り僅かな自分の人生を再構築する機会になりました。
そのことが叔父さんのその後の人生に大きな影響を与えました。
叔父さんはその遺言の重みを知って、コペル君に向き合い、またコペル君との関係の中で自分と向き合わざるを得なかったからです。
叔父さんは、少年たちの年代に伝えたいことを伝えられる作家を探すのですが、見つかりません。
結果的には、叔父さんはコペル君のノートを元に「自分が書けばいいのだ」と気づきます。
◆ 「人間分子の関係、網目の法則」
この法則は、コペル君が、粉ミルクの缶を見て、オーストラリアの牛から粉ミルクが作られ、日本に届けられて自分の口に入るまで、どれくらいの人が関わったかを考えた時、
「きりがないほど多くの人が出て来ることを発見した!」と叔父さんに伝えてきた時の言葉です。
なお、これを読んだ叔父さんは、『既に「生産関係」と言われているもので残念ながら発見には当たらない』ことを伝えつつ、彼の年でそこに気づいたことを褒めます。
でも私は、コペル君のこの言葉を、もう一回生かしてあげたくなりました。
網目とは、今の時代のネットワークのことです。物の生産はともかく、ここまで見てきたような関係性は、意識のネットワークになっています。
上に書いただけでも、病院の少年→父親→叔父さん→コペル君 となり、コペル君→叔父さんもあり、コペル君→友人→コペル君→叔父さんとまさに網目の関係です。
(ここでは詳細を省きますが、気になる方はお読みになることをお勧めします)
それぞれが、関係の中で自分が作られ成長していくことを感じています。
叔父さんは、ノートの中で、
「人間が人間同士、お互いに好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。
そして、それが本当に人間らしい人間関係だと、―――コペル君、君はそう思わないかしら。」
と問いかけています。
私たちは、その網目の交点にいる存在として、人間らしい人間関係をつくるためには、そこに相手への理解、愛が必然でしょう。
私たちの意識がネットワークの中で、それぞれを成長させるだけの「何か」を与え合えるのか、
この本は、改めて大人である私たち自身にも、戦前から時代を超えて問いかけてきたようです。
大人の私たちにも「君たちはどう生きるか」を改めて問われているのではないでしょうか。
※「漫画 君たちはどう生きるか」原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一(マガジンハウス刊)より引用しました