彼女の想いと情熱はカゲロウのように消えるどころか、今でも私たちをざわつかせる(写真:Yusuke_Yoshi/iStock・Getty Images Plus)

「男同士は本来、お互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である」とは、何につけても悲観的な哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアーが残した名言の1つだが、確かに思い当たる節がある。

時代や文化が違えど、女性の本性を知り尽くした清少納言姐さんもショーペンハウアーと同じようなことを思ったようで、『枕草子』の「ありがたきもの」という段を以下の文章で締めくくっている。

男、女をば言はじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末まで仲よき人、難し。
【イザ流圧倒的意訳】
男と女は言わずもがな、女同士でもなんでも話せる人と、ずっと超仲良しということはほとんどありえない。

女同士でずっと超仲良しなどありえない

ここでいう「ありがたし」というのは、「あることが難しい」という意味から「めったにない」というニュアンスで用いられる。仕事をバリバリとこなし、ビジネスシーンではキラキラと輝き、宮廷で何度も修羅場をくぐってきたキャリアウーマンの清姐さんの言葉だからこそ、意味深なところがある。


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平安時代の女流文学作品は、女性によって形成された極小コミュニティを中心につづられているだけあってか、かなりの確率で女同士の煩わしい関係が話題に上る。この中には、その存在が認識されるはるか前から「マウンティング女子」として周囲を困らせた女がいる。

それはもちろん、『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母である。

以前『蜻蛉日記』の内容を紹介させていただいたことがあるが(平安美女「復讐の書」が現代女性を救うワケ)、この上中下の3巻にわたって展開される、ゾクっとくる狂気に満ちあふれた物語を無性に読み返したくなるときがある。

この連載は、気の向くままに進めさせていただいているが、実は、前回の『蜻蛉日記』の記事も2月に掲載されていた。この季節に偏った読書を誘う何かがあるのかと思いをめぐらしたら、ハッと気づいた。無理矢理己の立ち位置を再認識させられ、半ば強制参加によって無駄にチョコが消費される、まったく楽しくないバレンタインデーという行事がすぐそこなのだ。

デパートの売り場で、財布と心の中身に見合ったベストチョコを探して楽しいひと時を過ごしている女性が多い時期だが、ひねくれた性格の持ち主である筆者は、チョコよりも、夫の浮気に苦しめられ、燃え尽きるまで嫉妬をしまくった女の話に手が伸びてしまうらしい。

女同士のガチンコ対決が満載

前回は愛を込めて、作者に<みっちゃん>というあだ名を(勝手ながら)つけたので、今回も同じように呼ぶことにする。

プレイボーイであることが男の宿命だった平安時代で、一途の愛を求めていたみっちゃんは生まれる時代を間違えてしまったと言わざるをえない。そして、大好きな夫に選ばれることをひたすら願っていた彼女は、選ばれずに傷ついた心を『蜻蛉日記』を通して癒やそうとしている。「これ以上負けたくない、負けてしまうと価値のない女になっちゃう」という緊張感、やたらとほかの女と張り合う気の強さ、ねちねちした独り言……。うっとうしいと思いながらも、病みつきになってしまう。

本来ならばふつふつと煮込んだ恨みを、自分を苦しめた男にぶっかけるべきだが、こみ上げてくる怒りの矛先は夫・兼家が愛したほかの女になっているのが痛々しいけれど、いかにも女らしい。みっちゃんほど聡明で、美人で、教養のある貴婦人でもそのような思考回路になるのだと、読みながら共感してしまうだけでなく、愛おしくさえ感じてくる。

そして、21年間分の恨みつらみがたっぷりと並べ立てられている『蜻蛉日記』の読みどころの1つは、強烈な印象を与える女同士のガチンコ対決。髪の引っ張り合いこそがないが、暴言を吐いて攻撃するシーンもなかなか臨場感あふれるものだ。今回は、『蜻蛉日記』における4大対決を紹介したい。

対決その1、みっちゃん対セレブ前妻、時姫様

好きな人の元妻なんて、可能なら記憶から抹消したい存在だが、みっちゃんはなんと自ら進んでコンタクトをとる。

おほかたの世のうちあはぬことはなければ、ただ人の心の思はずなるを、われのみならず、としごろのところにもたえにたなりと聞きて、文などかよふことありければ、五月三四日のほどにかくいひやる。そこにさへかるといふなるまこもぐさ いかなるさはにねをとどむらん かへし まこもぐさかるとはよどのさはなれや ねをとどむてふさははそことか
【イザ流圧倒的意訳】
周りの人たちが何も知らないだけで、私たち夫婦は順風満帆だと思っているだろうけど、彼の心はどうしても私の思いどおりにならなくって……。こちらだけではなく、長年通っていた時姫様のところもかなりご無沙汰だと聞き、以前連絡を取り合ったこともあったので、五月三、四日ぐらいに歌を送った。
あの方はあなたのところも最近行ってないわね。真菰草のような彼がいったいどこに根を下ろすつもりかしらねぇ。
それに対して
そのセリフ、そのままお返ししますわ。あなたのところに入り浸っているんじゃなくって?

マウンティングが炸裂!

兼家の浮気が確定し、みっちゃんは焦りぎみ。それにしても何を思って時姫に連絡をしようと思ったのだろうか。かなり理解に苦しむ行動だ。時姫はみっちゃんより2年ぐらい前に兼家の妻となり、みっちゃんに兼家を取られている。自分が同じ立場になったとはいえ、時姫に同情してもらおうというのはお門違いもいいところだ。

そこで思うのだ……。自分より、時姫への通いのペースがスローになっていると確信しているみっちゃんが、少しでも勝ちたいと思ったのではないかと。同じ苦しみを分かち合えるというよりも、相手より自分のほうが優位に立っていることを証明するための行為とも取れるわけだ。

時姫とみっちゃんのやり取りの中に、「底」/「其処」、「刈る」/「離(か)る」、つまり夜離れ、「根」/「寝」が掛けられている。掛詞や隠語を使うことで和歌の意味合いを広げるというのは一般的な機能ではあったが、この2人の和歌を比べると、単語に隠されているヒントを落とさずに、一つひとつに対して丁寧に、注意深く反論している。もはやこれは執念以外のなにものでもない……。しかし、これはまだまだ序の口だ。

対決その2、みっちゃん対町の小路の女

ランクが低い、大した才能も美貌もない人が自分より寵愛を受けるなんて、許しがたい。兼家がその女を車に乗せて、みっちゃんの家の前を大っぴらに通ったりして、耐えがたい日々が続く。嗚呼、死にたい、と想いをつづるが、正直なところ、「あの小娘を殺したい」とでも言っているように聞こえてしまう執念深さがうかがえる。そして……。

かうやうなるほどに、かのめでたき所には、子うみてしよりすさまじげに成りにたべかめれば、人にくかりし心思ひしやうは、命はあらせてわが思ふやうにおしかへしものを思はせばや、と思ひしを、さやうになりもていく。はてはうみののしりし子さへ死ぬるものか。(…)わが思ふにはいますこしうちまさりて嘆くらんと思ふに、いまぞ胸はあきたる。
【イザ流圧倒的意訳】
そうこうしているうちに、少し前まではヒートアップしていた町の小路の女との関係は、子どもが生まれたらすっかり冷めたようだ。あの女の命をそのまま生かしておいて、私の望みどおりに、私が苦しんだ分をたっぷりとお返ししたいと、心の中に思っていたが、なんと思いどおりになったわ! ついには大騒ぎになって生まれた子どもも死ぬなんてしてやったり。(…)私より嘆いて苦しんでいるであろうと思うと、やっと満足だわ。

平安京レディースはどう思っていたのか

すさまじい狂気と圧力だ。寵愛を失って、生んだ子どもまで失ってしまった女性に対してそこまで毒を吐くなんて正気のさただと思えない。相当なストレスがあっての本音炸裂なのだろうけど、かなり怖い。

『蜻蛉日記』はプライベートな記録でありながら、平安京のレディースの間で読まれていた作品でもある。障子や御簾で仕切られている薄暗い空間の中で、ひっそりとつぶやき合う女たちは、行間からぷんぷんと漂っているこのやり場のない怒りをどのように受け止めていたのだろうか。1000年以上経っている今でも圧倒されてしまいそうだが、登場人物を実際に知っていた当時の読者はさぞ複雑な気持ちになっていたことだろう。

対決その3、みっちゃん対ぴちぴち娘近江

ずっとではないにせよ、文句ばかり羅列する女と21年も付き合った兼家は、みっちゃんが訴えているほど嫌な奴ではなかったはずだ。何度も小言を言われ、時に断られ、手紙をあさられ、召使に尾行までされていた兼家。みっちゃんが悪者に仕立てようと努力したのは伝わってくるが、実は、怒りっぽいツンデレ貴婦人に翻弄されたのは兼家のほうなんじゃないかと思ってしまうほどだ。

でもまあ次々と愛人を作っては結婚して、あっちこっち通い詰めていたということはどうも本当らしい。その愛人の1人が、近江である。それまでは怒りを炸裂し、その気持ちを和歌に載せて「挑戦状」をたたきつけていたみっちゃんだが、ここでは「家出して尼になろうかしら」と少し弱気……。

結婚生活の間には、どんなことがあっても必ずお正月には現れていた兼家だが、今回は新しい恋人にゾッコンでついに姿を見せていない。新年の宴会から帰ってくる牛車が家の前を通るが、止まる人がいない。今か今かと心を躍らせている侍女たち、みっちゃんの顔色をうかがいながらなんとか励まそうとしているが、その努力は無駄に終わる。

過ぎゆく車の音に期待する悲しすぎる女心

またの日は、大饗とてののしる。いと近ければ、こよひさりともと心みんと、人しれず思ふ。車の音ごとに胸つぶる。夜よきほどにて、みな帰る音も聞こゆ。門のもとよりもあまた追ひ散らしつつ行くを、過ぎぬと聞くたびごとに心はうごく。かぎりと聞き果てつれば、すべてものぞおぼえぬ。

あくる日まだつとめて、なほもあらで文見ゆ。返りごとせず。
【イザ流圧倒的意訳】
次の日は立派な宴会があって騒がしい。わが家から大変近いところで開催されていたので、あの人はいくら何でも今夜こそは顔を出すに違いない、と内心期待もしていたわ。車が通る音が聞こえてくるたびにドキドキする。夜がかなり更けたところ、招かれた客が少しずつ帰っていく音が聞こえる。わが家の門の前を通って、次々と去っていくのを聞いて、ああ一台過ぎた、もう一台過ぎた、と感情が高ぶり、胸がうずく。最後の車が通り過ぎて行った音が遠くなって消えていくと、私はもう唖然として、頭が空っぽになった。
翌朝、悪いと思ったからかあの人から手紙が来た。シカトしてやった。

ひたすら待ってしまう長い夜。闇の中で耳を澄ませて、すべての音が気になって、あの人の気配を探る。通り過ぎていく車の音で落胆して、また体が緊張する。相手が来るかもと思って、髪の毛をセットして、着物を慎重に選ぶ。浮かれまいと思って自分を抑えようとも、胸が期待で膨らみ、そして裏切られる……。悲しみは決して癒えることはない。

そんなみっちゃん、ついにラスボスとの対決を迎える。

対決その4、ラスボス兼家

耐えきれず家を飛び出したみっちゃんは鳴滝の般若寺に籠る。『蜻蛉日記』のハイライトとも言われている「鳴滝ごもり」というエピソードの始まりだ。みっちゃんはかなりまじめにその当時の出来事を振り返り、やり取りを正確に再現しているので、こちらも真剣に読もうとするが、何もかもが滑稽すぎる。

妻がいきなり寺に籠ってしまったので世間体が悪いと思って、兼家がすかさず駆けつける。しかし、物忌み中で、車から降りられず直接説得できない。そこで、2人の間の連絡係に起用されたのはなんと、母親についてきた幼い道綱だ。

数百メートルの間を何度も何度も往復してヘトヘトになりながら必死に伝言を届ける。しかし、みっちゃんが折れないので、兼家がしだいに不機嫌になり、「お前の伝え方が悪い」と怒り、母親も「お前は頼りない」とイライラする始末。らちが明かないので、兼家が京都に帰ろうとするとき、耐えられないので一緒に連れて行ってほしいと頼むもあっさりと拒否されてしまう。しくしく泣きながらあきめる道綱……。

ほかの兄弟に比べて道綱は出世がかなり遅かった。父親のような政治的な才能に恵まれず、母親のような文学的な才能も遺伝しなかったそうだが、子どものときにこんなトラウマがあったのか、と同情してしまう。

そして「蜻蛉日記」は幕を閉じる

夫婦のやり取りはしばらくが続くが、とうとう974年12月の大晦日、兼家の訪れが完全に途切れてしまったときに日記は幕を閉じる。

この時代、夫に振り回されてもジッとしていた女性がほとんどだったが、みっちゃんは違った。嫉妬を飼いならして、友達にすれば、それは色ごとにとってこの上のない刺激物になったかもしれないが、ツンデレでプライドの高い貴婦人はその感情を器用に処理できなかった。夢を見ていた結婚生活を手に入れるために、ボロボロになりながら、さまざまな相手と戦い抜いた。最後は負けてしまったかもしれないが、緊張感あふれる、ハラハラ、ワクワクする対決を見せてくれた。

絵巻や屏風などで見る、目が細くて、おちょぼ口で、黒髪に包まれている女たちから、個性や表情を感じとることは難しく、みんな同じに見えてしまうことがある。しかし、遠い昔、薄暗い部屋の奥深くでひっそりと生きていた女たちの中で、こんなに熱くて、はっきりとした性格を持った人がいたと知ると、ときめきを感じる。

長年の結婚生活に終止符を打って、道綱母はその後どのような生活を送ったかは、誰もわからない。しかし、はっきりと言えるのは、彼女の想いと情熱はカゲロウのように消えるどころか、今でも私たちをざわつかせるど同時に引きつける。

「こんな女に絶対なりたくない!」と思いながら『蜻蛉日記』を本棚に戻すが、今回もお気に入り箇所に貼っている付箋が少し増えた。そして、ここだけの話、今回も自分に似ているところをたくさん発見してしまった。

どんなに社会や風習が変わろうが進化しようが、胸の中に渦巻く愛情や嫉妬、怒りや情熱といった感情は薄まることなく、後の時代を生きる人にも伝わる。そして、愛はすべてに打ち勝つのかもしれないが、怒りも時代を飛び越えて燃え続けるものだということを、道綱母は知っていたのである。