<父・平幹二朗さん一周忌>息子・平岳大が語る、両親離婚後のドラマチック再会
「親の死というのは、誰もがいずれ通りすぎる道ですから、頭の片隅ではわかっていたことです。ただ、僕のオヤジの場合は何の前ぶれもなく、本当に突然の別れでしたから。
もちろん、“悲しい”という感情はあったのですが、正直なところ、ただただ驚いたまま、最初の数日を過ごした気がします」
昨年10月22日に、連絡がとれなくなった平幹二朗さんを心配して自宅に駆けつけた長男で俳優の平岳大。そこで、父が浴槽で心肺停止の状態で倒れているのを発見。平さんはそのまま帰らぬ人となった。
平さんは当時、放送中の月9ドラマ『カインとアベル』(フジテレビ系)に出演中で数日前まで元気に買い物する姿が地元商店街で目撃されており、突然の訃報だった。
あれから1年─。一周忌法要を無事にすませた岳大は今、何を思うのか。
父に相談した芸能界入り
「この1年は、早かったような、長かったような不思議な感覚です。公私ともに、とても濃密な1年を過ごしてきて、自分でもとてもポジティブに頑張ってきたという実感があります。
別にネガティブな思考があったわけではないのですが、“これからすべて自分でやっていかなければ……”という、区切りというか、覚悟のような思いが生まれた1年でした」
岳大は平さんと女優・佐久間良子の長男として'74年に誕生。だが'84年に、彼が10歳のときに両親は離婚してしまう。
「離婚する前もオヤジはほとんど家にいませんでしたので、あんまり寂しいということはありませんでした。僕が役者になるまでは、めったに会わなかったので、生活感がないというか……。
たまに会っても話題は芝居のことばかりの人でしたから、会話といっても、次は何という舞台をやって誰と共演してとか、表面的な話しか聞けないですし、当たりさわりのない話しかできなかったです。
役者になってからは、共通の話題ができて、いろんな話ができるようになりましたけど」
岳大は高校在学中に単身、アメリカに留学。そこで大学院まで進学し、一般企業に就職する。だが、両親と同じ役者になることを決意し、仕事を辞めて飛び込んだのは27歳のとき。そのことを真っ先に相談したのは、父親の平さんだった。
「子どものころに母に冗談で“役者になりたい”って言ったら、“絶対ダメ”って、すごく反対されたんです。なので、まずは父に相談しました」
その父親も、岳大の芸能界入りを当初は反対していたというが……。
「まあ、オヤジは一緒に生活していないから、いわば僕は遠くで育ってきた息子です。その子どもが“役者やる”と言いだしたら、最初は反対していても、ひとりの男として好きなことを仕事にしたほうがいいという考えだったのか、“じゃあ、やってみなさい”と言われました。
父親としての言い方というよりは、“相談乗るよ”くらいの感じでしたけどね。ただ、後から聞いたら、オヤジはうれしかったみたいです。僕も両親がいなかったら役者にはなってなかったでしょうね」
そんな彼の役者デビューは、離婚後に初めて父と母が共演することになった舞台『鹿鳴館』。2人の共演だけでも話題になったが、さらに子ども役を実の息子がやることになったため、大いに注目されることになった。
父母と共演した舞台
「でも、母は大反対で“私は絶対に許しません。出るのなら降ります”とまで言うわけです。なので、プロデューサーからは“出るのはいいけど、お母さんを説得しろ”と。それで、毎日毎日、母のところに行って、“どうしてもやりたいんです”と、ずっと説得しに行くんですが、母は“ノー”と言い続けて、いつも大ゲンカして帰ってくる。
そういう日を何日か繰り返して、でも舞台は動きだしていたので止められず、稽古初日になり本番になった感じでしたね。なので、本番中も目を合わせてくれなかったですよ(笑)。
舞台が終わっても1年間くらい口をきいてくれなかったです。しばらく母は、“だまされた、だまされた”って言っていましたね。ただ父は僕の味方はしてくれていたんですが、母を説得するまでは難しかったようです」
『鹿鳴館』は再演されたが、その後、家族で共演するチャンスは2度と訪れなかった。
「もうちょっと自分が実績を積み、実力をつけてから両親と共演してみたかったという思いはあります。自分がやらせていただいてこんなことを言うのもおかしいですが、僕は本物の親子が役の上でも親子を演じることがいいことだったのかは、いまだにわからないんです。
でも、あのときよりもっと僕が力をつけてから共演できたなら、もっと面白い作品になったかもしれない、と思うことがあります」
『鹿鳴館』の舞台が終わると、岳大は平さんが出演するシェイクスピア劇に参加。会えなかった時間を埋めるかのように、濃密な時間を過ごした。
「オヤジとはシェイクスピアで8か月ほど一緒にやりました。地方の劇場を転々とし、新劇のベテランたちに囲まれて、舞台の発声もままならないころだったんで、もう、ずっとのどをつぶしていましたね。
そこから、僕の俳優修業が始まったようなものでした。とてもつらかったけど、すごく勉強させていただきました」
平さんの遺品の中には、名俳優らしく舞台写真や、著名人との写真が段ボールに何箱もあるという。
「家に帰ってから、“オヤジはこういうことをやっていたのか”と見るのがけっこう、楽しいんですけど、その写真を見ていると、“ああ、いいなあ”ってすごく思いますね。
遺した写真や資料を見て、改めてオヤジは届かない存在なんだと思うんですが、そのことを心地よく思える年齢になったと自分でも思います」
子どものころは偉大な役者である“平さんの息子”“佐久間の息子”と言われることを嫌い、高校からアメリカに留学している。そしてブラウン大学の卒業式でのエピソードを懐かしむように語る。
ドラマのような、離婚後のふたりの再会
「母が学費を全部出してくれたので母を卒業式に呼ぶのは当然なんですけど、1000歩譲ってもらって、僕の卒業式なので僕が来てほしい人を呼ぶということで、オヤジを呼んだんです。
でも、これがアメリカに来る前に母にバレまして(笑)。“私が育てたのに、いいところだけ持っていって”とムッとしていたんですが、妹やおばさんなどがなだめてくれて、何とかアメリカに来てもらいました」
そこで、離婚した父と母を会わせないよう、岳大は細心の注意を払ったのだが……。
「ある日、母が買い物に行きたいって言うので、僕が車を出してボストンの街にあるショッピングモールに買い物にいったんです。午後5時くらいだったんですけど、母が買い物袋を持ってお店を出てきたときに、ふとエレベーターから日本人の男性が降りてきたのが見えたんです。
それも、ちょっと顔が大きく威圧感がある人で、“ちょっと待て、そんな偶然ないよな”と思いつつ、“あ、このモールの上のホテルにオヤジが泊まっていたな”ということを思い出した瞬間、もうオヤジが隣に立っていたんですよ。
でも、母はこっちから歩いてきて、本当にドラマみたいにばったり目の前でふたりが会っちゃって。僕は浮気がバレた人みたいに小さくなってましたよ(笑)。それが、離婚後初めて、ふたりが再会した瞬間だったんです」
卒業式当日は、佐久間と並んで出席したという岳大。その息子の晴れ姿を平さんはこっそりと見ていたという。
父であり偉大な役者である“平幹二朗”は、どんな存在であったのか聞いてみると、
「(……しばらく無言で考えて)自分を守ってくれる殻であり、自分が抜け出したい殻であり、抜け出したくない殻であり、自分が同一化している殻なんだと思います。
それがなくなって、正直、初めて大人になったような気がしています。43歳になって恥ずかしいですが、本当に殻がなくなったなという気持ちは強いですね」
そう話し、寂しげな表情を浮かべたのだった─。