命を繋ぐ5000通の葉書、父母娘のトリプル介護をする童話作家がたどり着いた境地
重度の脳性麻痺で介護の欠かせない娘とうつと認知症を併発してしまった遠く離れて暮らす自分の母親、母の命か? 娘の命か? どうすることもできない選択を迫られた脇谷みどりさんは、母の命を守るため郵便局に走った──。
◇ ◇ ◇
「娘が死んでもいいから母を助けるか。娘を助けなあかんから母を放っておくか」
ある日突然、童話作家の脇谷みどりさん(63)は究極の選択を迫られ、胸が張り裂けそうになった。
1995年4月、郷里の大分県に住む父から、当時67歳の母がうつ病と認知症状を併発、「死にたい」と泣いてばかりいるから帰って来てほしいと電話があった。
だが、脇谷さんの長女かのこさん(35)は脳性麻痺で重度の障がいがある。寝たきりの娘を置いて、兵庫県西宮市の自宅を離れられない。
「そんなん、選べないでしょう。両方助けるにはどうすればいいか。必死に考えました。電話を毎日、長時間かけたら1か月に何万円もかかって、うちが食べていけんし。
それで考えついたのが、毎日、葉書を出して、とにかく笑かしてみようと。効果があるか確信も何もなかったけど、葉書なら月に1500円ですから(笑)」
明るい口調でさらりと話すが、その葉書にはありったけの想いを込めた。実家のポストに毎日、11時に届く葉書を待っていてほしい。そして、次の葉書が届くまで生きていてほしい──。
大変だったのは、くすっと笑えるネタ探しだ。娘を自宅で介護する脇谷さんの生活圏は狭い。リハビリや買い物で外出するときはメモ帳を持参して、周囲の人を観察した。
ベビーカーから勝手に脱出してニッと笑う幼児。ビール缶の被り物を着て元気に呼び込む販売員。重たいジュースの箱をヒョイと抱えて電動車に乗るおばあちゃん……。
カラフルなイラストを交えて生き生きとつづった。
「なにか面白いことない?」
脇谷さんは知り合いに会うたびに聞いた。
かのこさんの2歳上の長男正嗣さん(37)は当時、高校生。困っている母のために多くのネタを提供したそうだ。
「学校にこんな先生がいるとか、電車のなかでこんな人を見たとか、たわいもないことをふくらませて、面白おかしく親子でしゃべるというのが日常やったですね。普通なら母親とはあまり話さない年ごろですが、うちは団地で家が狭いので、テレビの横にかのこが寝ていて、母も側にいたので、自然と会話してました。ちょうど通学路にポストがあったので、毎朝、投かんするのは僕の役目でした。
ただ、なんで急に葉書を書き始めたのかは、絶対に教えてくれなかったです」
大分の母の状態は一進一退を繰り返し、徘徊して夜の海に入り命を落としかけたこともあった。だが、「笑い」は凍りついた母の心をゆっくり解かしていき、4年目には抗うつ剤が必要ないほど回復した。それでも、急に心の支えがなくなると症状が悪くなるかもしれないと聞き、その後も変わらずに書き続けた。
最後の葉書を書いたのは2008年11月。大分を離れる決心をした両親を西宮に迎える3日前だった。
◇ ◇ ◇
13年の間に脇谷さんが書いた葉書はなんと5000枚にのぼる。母はそのすべてを大切に保存してくれていた。『希望のスイッチは、くすっ』にまとめて’11年に出版すると、評判になった。
その本を原作として作られたのが映画『キセキの葉書』(ジャッキー・ウー監督)だ。フィクションではあるが、内容はほぼ事実に基づいている。今年の夏に関西で先行上映され、11月4日から東京など全国で上映が始まった。
脇谷さんの役を演じたのは、タレントの鈴木紗理奈さん(40)だ。配役を聞いて驚いたと脇谷さんは話す。
「バラエティーに出ている印象が強かったから、全然ちゃうやんと(笑)。でも、私が介護しているところを家まで見に来て、こうやって身体をひっくり返すとか、すべて体得していかれたので、素晴らしい女優さんやなと。完成披露上映会には、かのこを連れて行ったんです。
懸命に演じる紗理奈ちゃんを見ていたら、不思議なことに頑張れ〜と応援してしまうのよ。自分のことなのにね(笑)」
紗理奈さんにとって、『キセキの葉書』は初の主演映画だ。オファーが来たとき、こんなに重い役を自分ができるのか、不安だったという。
「それが台本を読んだら、どのセリフも涙をこらえないとダメなくらい、すっごい共感できたんです。脇谷さんの考え方もまさにそのとおりやと思えたし。“全部が学びや”とか、“闇のなかには光と影があってどちらを感じるかは本人次第”とか。私自身、息子が生まれてからそういう感覚がすごくあったので、撮影はめっちゃ楽しかったです」
紗理奈さんが演じる主人公は苦労するそぶりを見せず、日々を懸命に生きている。それだけに、疲れて本音をポロリと吐露するシーンが、より強く印象に残った。
演技のヒントになったのは脇谷さんとの会話。「気がついたら5000枚書いていたの」と楽しそうに話す脇谷さんを見て、大変さを前面に出すのはやめようと決めたそうだ。
「だって、脇谷さんほどの苦労じゃなくても、私も含めて、それぞれ、人生、何かしら抱えているじゃないですか。普段は心のなかの見えないところにしまって、みんな元気に生きているんだろうなと思ったんです」
この演技が高く評価され、紗理奈さんはマドリード国際映画祭で最優秀外国映画主演女優賞を獲得した。
映画は脇谷さんが暮らす武庫川団地で昨年9月に撮影された。家のなかのシーンは、脇谷さんの自宅の3軒隣の空き部屋が使われた。
協力してくれた地元の人たちに見てほしい。そんな脇谷さんの願いを叶えてくれたのは、脇谷さんが’05年からパーソナリティーを務める地元のコミュニティー放送局のさくらFMだ。
今年7月にさくらFMが主催して上映会を開くと大盛況だった。脇谷さんの番組『風のような手紙』を担当する入江吉則さん(37)は、そのときの様子を教えてくれた。
「ビックリしたのは、4回上映したすべての回で、映画が終わっても誰も席を立たないんです。場内が明るくなったら、ワアーッと自然と拍手が起こる。そんな映画、なかなかないですよね」
上映会には脇谷さんの知り合いだけでなく、リスナーもたくさん来てくれた。
実は脇谷さん、両親を西宮市に迎えてすぐ、さらなる試練に見舞われていた。90歳の父が認知症を発症。81歳の母は脳梗塞で倒れ、かのこさんの世話と「トリプル介護」の生活が始まったのだ。
どんな苦難にもめげず、自分の失敗も包み隠さず話す。そんな脇谷さんの“ぶっちゃけトーク”に共感し、励まされたという人は多い。今はインターネットを通じてどこでも聴けるので、遠く離れたリスナーからも反響がある。
作家になるのは無理と思ってた
よくしゃべり、いつも快活な脇谷さんだが、幼いころは真逆。黙って座っている静かな子どもだったそうだ。
生まれ育ったのは大分県佐伯市。海と山に囲まれた自然豊かな地で、父は郵便局員を、母は小学校の代用教員をしていた。結婚後に教員を辞めた母は、脇谷さんと妹を産んだあとも創作ダンスを教えるなど、活動的な人だった。
貧血で身体も弱い脇谷さんは小学校の朝礼で毎回のように倒れ、男子にからかわれた。休み時間に逃げ込んだのは図書室だった。
「そこで本に出会いました。たくさん読むと、すらすら書けるじゃないですか。作文の授業が始まり、先生にほめられると、私をいじめていた子たちが“オーッ”と歓声を上げて。これだけは勝てると思いました」
実家で暮らしたのは中学まで。進学校の佐伯鶴城高校に進み、家が遠いため寮に入った。当時、高校生に人気だった雑誌『高一時代』『高二時代』を愛読し、詩の投稿を続けた。
「結構な確率で載ったんですよ。鳶をしていた同級生が落ちて亡くなったことを書いた詩を、詩人の丸山薫さんが絶賛してくれて最優秀賞に選んでくれたんです。それで、書いて食べていけるかもと、錯覚してしまうんですね」
関西外国語短大に進学。卒業後も関西にとどまり、全日空に就職して、グランドホステスになった。働きながら詩や童話を書いていたが、発表するあてはない。
「作家になりたいけど叶わないと思うんだよね」と会社の後輩にもらすと、「やる前から無理だと思ってるの?」と指摘され、ドキッとした。
「失敗するところを他人に見られたくないとか、プライドが高かったんでしょうね。そのときは頑張ってもプロにはなれなかったけど、1年たったら変なプライドが消えていたんです」
23歳で全日空を辞め、研究職の男性と結婚した。先に夫の父と知り合い、すっかり意気投合したのだという。
「義父は知らん人にも、どないやーと声をかけるような、関西のオッチャンで、本当におもろいんです。すすめられて息子と会うてみたら、もの静かな人でした。“一生懸命仕事してんねん。ええやっちゃで。うちに嫁に来いへんか”と、義父にプロポーズされたんですよ(笑)」
あと50センチ車道に出たら楽になる
26歳で正嗣さんを、28歳でかのこさんを出産した。
ところが、生後2か月を過ぎても、かのこさんは上をじっと見たままで、目で物を追わない。
「目が見えてへんの違うか?」
夫に指摘されて、総合病院で検査をすると、こう告げられた。
「脳自体が萎縮しています。脳性麻痺という障がいで薬では治りません。目も見えるようになるかわからないし、耳が聞こえているか、調べるすべがありません」
脇谷さんは呆然としたまま帰宅した。すぐに当時住んでいた大阪府堺市の近所で、障がい児を育てた経験のある人を探した。筋ジストロフィーの息子を16歳で亡くした60代の女性が見つかり、訪ねていった。
「こんだけの障がいのある子、よう育てん」
脇谷さんが泣き崩れると、そのオバチャンは、なぜか笑顔で言った。
「よかったな。こっからがほんまもんの人生や」
「嫌です! ほんまもんの人生なんか歩きたくない」
泣き続ける脇谷さんに、オバチャンは繰り返した。
「あんたやで、あんたが変わらなあかんねんで」
成長するにつれ、かのこさんはけいれんの発作を頻繁に起こすようになった。寝返りすら打てなくなり、首もすわらない。手足などが勝手に動く不随意運動がひどく、ベビーカーに乗せると落ちてしまう。すぐに体調を崩し、毎月のように入院した。
小学校に入学する年齢までには歩けるようにしたいと、懸命にリハビリをしたが、状態は悪くなる一方……。
専門の施設に預ければと言われるのが怖くて、内心の焦燥を夫にすら見せず、いつも明るく振る舞った。
どうしてもこらえきれなくなると、ひとりで泣いた。そんな母の姿を、まだ幼かった正嗣さんは覚えている。
「部屋の隅っこでしょっちゅう泣いていました。母は僕が見ていないと思っているけど、見てましたから」
唯一、オバチャンの前では弱音を吐いたが、何度訪ねて行っても、かけてくれるのは同じ言葉だった。
「あんたが変わらなあかん」
ある日突然、脇谷さんは食べられなくなり、仮面うつ病と診断された。自分が死んだら、かのこさんはどうなるのかという不安が原因だった。
いっそ一緒に死んでしまおうとは思わなかったのか。恐る恐る聞くと、「ありましたよ」とあっさり答える。
凍りつくような冬の日。バスの発車音に驚いて背中におぶったかのこさんが泣き叫んだため、寒がる正嗣さんを抱っこして、トラックが行き交う国道沿いを歩いて帰った。
「あと50センチ、車道に出たら楽になるんやろうな」
死の誘惑にかられそうになったが、そのまま10歩、20歩と歩き続けていると、今度は笑えてきたそうだ。
自分が変わると世界が変わった
転機は、かのこさんが5歳のときに訪れた。
朝6時に家を出て2時間かけて京都の病院にリハビリに通う途中、楽しげな家族連れが乗る車を見て、無意識につぶやいていた。
「お母さんもね、あんたが生まれてくるまでは、あんなふうに幸せやったのよ。あんたさえ、おらへんかったら……」
自分で自分の言葉に気がつき、ハッとした。
「あー! 私、自分はものすごい不幸だと思っているわ。オバチャンの“あんたが変わらなあかん”という言葉の意味がストーンとわかりました。本当にその瞬間なんです。寝たきりで何が悪いねん。歩けなくても、世界一、幸せにしようと思えたのは」
自分が変わったら、取り巻く世界が音を立てて動き出したような気がしたという。
脇谷さんは、それまで全精力を注いで続けてきた、歩くための週3回のリハビリをやめた。命を維持する週1回のリハビリに切り替え、時間にも気持ちにも余裕ができ、作家になる夢を思い出した。
かのこさんのベッドの横にアイロン台を置き、机がわりにして童話を書き始めた。小学生の正嗣さんに感想を聞いては書き直す。完成した『とべ!パクチビクロ』が出版社の目にとまり、36歳で作家デビューした。童話を書き続け、’08年からは毎日新聞大阪版に日常を明るくつづるエッセイの連載をしている。
大分の母がうつ病になったと電話が来たとき、脇谷さんは42歳。すっかりたくましいオカンになっていた。
「私だって、その瞬間は驚くんやで。エー、どないしよと思うけど、いやいやいや、すぐ対策を考えましょうとなる。もう、絶望しない体質になってますねぇ(笑)」
娘の葉書で元気を取り戻した母のマスさん(90)。今は同じ団地の隣の部屋で暮らしている。当時、どんな気持ちで葉書を読んでいたのか、聞いてみた。
「1枚の葉書が1日中、効き目がありました。スケッチブックを買って葉書を貼り、暗記するくらい何回も読み直しては笑っていました。娘の書いてくることが新鮮で、考えもしなかった面白さがこの世にあることがわかって、明日が待ち遠しかったです」
うつ病が治るとマスさんは「私はもっと面白いものが書けるわ」と言い出し、自叙伝を出版してしまった。
周囲の助けを借りることが大切
理学療法士の吉田聖代さん(41)との出会いは、脇谷さんだけでなく、かのこさんにも大きな変化をもたらした。吉田さんのリハビリのおかげで、かのこさんが26歳のとき意思の疎通ができるようになったのだ。
だが、吉田さんに聞くと、担当し始めた当初は脇谷さんとかなりぶつかったそうだ。
「かのちゃんは重度のなかの重度やったんで、お母さんは“そんなん無理無理”という感じで。でも、私は重度の障がいがあっても感情のない人はいないと思っていたので、手にボールを握らせるところからスタートして、7年かかりました。自分の意思が伝えられるようになって、かのちゃんは円形脱毛症が治ったんですよ」
かのこさんに質問をし手をギュッと握ったら、ハイという返事。イイエのときは握らない。これまで何がいちばん苦しかったかと聞いたら、けいれん発作や肺炎で死にかけたことではなく、自分の意思を伝えられなかったことだと答えた。こうした体験を経て、脇谷さんは周りの人の助けを借りる大切さを痛感した。
「なんでもそうですが、ひとりだけで抱え込まずにたくさん仲間をつくることが大切なんです。かのこは週3回、施設に通っていますが、今日は行かない日なのでヘルパーさんが2人来てお風呂に入れてくれます。いつもヘルパーさんとは、お友達みたいに何でも話しているんですよ。“お母さんがいつ死んでも、かのこちゃんが誰にでも世話してもらえるようにしておくのが愛情ですよ”と言われて、そのとおりやねと思いました」
父母娘、トリプル介護が始まった
’08年に両親が西宮に来てトリプル介護が始まると、戸惑うことばかりだった。
認知症の父は真夏なのに「寒い、寒い」と言って洋服を着こんでコタツまで引っ張り出す。脇谷さんは「こんなに汗をかいているってことは暑いんだよ」と説得しようとしたが逆効果。室温が33℃を超えても、父は頑としてクーラーをつけない。脳梗塞を患い不整脈もある母は、ついに熱中症で倒れてしまう。
脇谷さんが衰弱した母を自分の家に連れていくと、父は娘を「女房泥棒」だと思って激高し、殴りかかってきた。
ことの次第を医師に話すと「お父さんはあなたに怒っているのです。あなたの介護が間違っていたからですよ」と指摘され、脇谷さんは自分の頑張りを全否定されたような気がした。
「3度のご飯を用意して、掃除をして、必死になってやってるのに、私のどこが悪いんよと腹が立ちましたよ」
救いの手を差しのべてくれたのは、かのこさんを担当するヘルパーの青木智子さん(51)だ。青木さんは老人介護施設で働いた経験から、こんなアドバイスをした。
「とりあえず何でも、“あー、そうなん、大変やね”と言っとったらええねん。おじいちゃんに来るな言われたら、当分行かんかったらいいやん。そのうち怒っていたことも忘れると思うよ。忘れるのが認知症やから」
青木さんは、脇谷さんが頑張って手をかけすぎることが気になっていたそうだ。
「お母さんはかのちゃんを一生懸命育ててきたから、自分の親にも同じようにせなあかんと思ってたみたいです。だから、私の話も初めは“エー、そんな軽い調子で大丈夫なん?”と思ったみたいですが、 そのうち“そういや、お医者さんにもそう言われたな”と自分で気づいて、学んでいかれたんですよ」
結局、クーラー騒動は、いつも冷静に見守ってくれていた脇谷さんの夫が、窓につけるクーラーを設置することで、一件落着した。
昨年10月、脇谷さんは父を97歳で看取った。8年にわたるトリプル介護の日々を『晴れときどき 認知症』にまとめ今年7月に出版した。
今はダブル介護だが、昼間はヘルパーや訪問看護師などが次々とやって来る。合間にかのこさんの痰の吸引をしたり、着替えをさせたり。
目の回るような忙しさなのに、風呂入れを担当するヘルパーが脱水症状にならないようにと、冷たい飲み物を用意する気遣いを忘れない。
脇谷さんは一見、強そうに見えるが、それは強くならざるをえなかっただけで、本来はとても繊細で情が深い人なのだろう。そうでなかったら苦労を承知で、両親の介護までできるものではない。
目の前のことを必死にやるだけ
よき話し相手だった息子の正嗣さんは14年前に渡米。大学院を卒業して障がい児の特別支援教育に携わっている。
渡米して間もないころ、帰国しようかと悩んで母に相談したら、こう諭された。
「いつでも帰っておいで。ただ、負けて帰ってきたらあかん。とにかく、今日1日を生きなさい。今日1日だけ生きるんだと思えば、明日も来週も来月も生きられるから」
アメリカの障がい者支援は日本よりさまざまな面で進んでいる。今では、正嗣さんは頼りになる相談相手だ。
脇谷さんは3年前、若き日の自分を変えてくれたオバチャンに再会した。
お礼を言ったら、意外な返事が返ってきた。
「あれは私が言うた言葉と違う。幼い息子を抱えて嘆き悲しむ私に、先輩が言うてくれたんや」
それ以来、脇谷さんは障がい児を抱えた若い母親に会うと、同じ言葉を伝えている。
「キーワードは、あんたが変わることなんやで」
脇谷さん自身、困難に突き当たるたび、素直に学び、変わることで乗り越えてきた。
そして、作家デビュー、ラジオのパーソナリティー、著書の映画化など、思いもよらない道が開けてきた。
慌ただしくも充実した日々を送る脇谷さん。これからの夢を聞くと、「ないのよ」と即答した。
「ないっていうか、目の前に落ちてきたことを必死にやるだけです。もし、自分が死ぬ瞬間まで介護していても、私は不幸だとは思わないわ」
笑顔で言って、ふと耳を澄ますと、かのこさんの痰を吸引するため、スッと立ち上がった。
※映画『キセキの葉書』全国公開中。詳しくは公式ホームページで。http://museplanning.co/movie-kisekinohagaki.html
取材・文/萩原絹代
はぎわらきぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。