「玉水屋」ホームページより

名古屋市中区にある老舗眼鏡専門店「玉水屋」が、2017年11月30日に店じまいする。

玉水屋の創業は1751年、260年を超える歴史を持つ老舗だ。紳士向けの小物を扱う店として繁盛し、やがて明治期になると、眼鏡を本格的に取り扱うようになる。玉水屋は多くの眼科医の指定店となり繁盛し、大正期にはレンズの生産も手掛けた時期もあったという。1925年、現在の場所に店舗を移した。

Jタウンネット編集部は10月17日、玉水屋に電話して話を聞いてみた。

眼鏡小売業部門から撤退、ビルも売却......


「日本初の角膜コンタクトレンズ誕生の地」ページ(「玉水屋」ホームページより)

電話で答えてくれたのは、玉水屋社長の津田節哉さんだった。

「株式会社玉水屋は眼鏡小売業部門から撤退し、不動産部門を残して存続することになります。現在のビルも売却しました。1階・2階には新しいテナントが入ると聞いています」と津田社長。

玉水屋は「日本初のコンタクトレンズが生まれた場所」として知られている。玉水屋公式ホームページには、次のようなエピソードが記されている。

1951年当時、国内コンタクトレンズ最大手のメニコン創業者の田中恭一会長は、玉水屋の店員として勤めていた。玉水屋を訪れた米軍将校夫人との、こんな会話がきっかけだった。

眼鏡を注文した将校夫人は、「私、コンタクトレンズを持っているのよ」とつぶやいた。眼鏡専門誌でしか見たことがなかった田中氏は、「ぜひ、見せてもらえませんか」と頼んだ。しかし将校夫人は、「大事なものだからダメよ」とかたくなに断った。田中氏が何度も懇願しても、結局見せてもらえなかったという。

「それなら自分で作ってやる」と、田中氏は一念発起、さまざまな試練を克服して、開発に成功する。その後、田中氏はメニコンの創業者となったのだ。「日本初のコンタクトレンズ発祥の地」という記念プレートが、玉水屋の外壁に据えられるようになったのは、2000年のことだ。

「あの記念プレートも撤去されることになります」と、津田社長は残念そうに語った。

11月末、名古屋で営業を続けてきた「玉水屋」は創業266年の歴史に幕を下ろす。「日本初のコンタクトレンズ発祥の地」の記念プレートも姿を消すことになる。