50歳を迎えた永遠のサッカー少年。「いつか『職業:カズ』って書けるようになりたいね」
普段のホームゲームでは考えられない数の訪問者で、ニッパツ三ッ沢球技場の小さな正面玄関はごった返していた。
【キング・カズPHOTO】最年長出場記録を更新。ド派手なピンクスーツ姿も披露!!
この日50歳となったキング・カズこと、三浦知良。その雄姿を称えんと、親族をはじめ、元僚友、チームOB、スポンサー関係者、そして300人近い報道陣が殺到したのだ。
そんなビジターを柔和な表情で迎え、ゲストルームに招いていたのが、横浜FCの奥寺康彦会長である。1970年代後半から80年代にかけてブンデスリーガで活躍した元祖・パイオニアは、50歳にして現役のカズをどう見ているのか。忙しいなか、話を聞かせてくれた。
「ここまでやること自体が凄いよね。長い間かけて積み重ねてきたものが滲み出ているし、メンタルをずっと高く保つことも簡単じゃないと思う。心の底からサッカーが好きなんだよ、カズは。代表を目ざす、ワールドカップに出るのが目標と口にするけど、普段の取り組みを見ていると、あながち冗談じゃないんだと思えるからね」
両雄が初めて会話を交わしたのは、1986年のキリンカップだった。19歳のカズはパルメイラスの、34歳の奥寺氏はヴェルダー・ブレーメンの一員として凱旋し、決勝で対峙したのだ。その試合後、プロ選手としての大先輩に歩み寄ったのがカズだった。“オク”が懐かしそうに当時を振り返る。
「あれから30年以上も経つんだね。あのとき、カズが訊いてきた。『戻ってきて日本のサッカーを盛り上げたほうがいいんですかね』と。だから言ったんだ。『もっとそっち(ブラジル)でやったほうがいい。自分のやるべきこと、したいことをしなさい。帰ってくることはないよ』って。たしかそんな会話だったと思う」
私は、いわゆるカズ・フリークではない。長きに渡って身近で取材を続け、その真髄やイズム、心の変遷を語り尽くせる方はたくさんいるし、2月26日の三ッ沢はそうしたベテランの記者・ライター陣が一堂に会していた。
そのうち何人かは新聞社やテレビ局のお偉いさんになっていて、普段はなかなか現場には来れないのだが、どうやら「カズ詣で」だけは免罪符のようで、子どものようにニコニコしながら取材をしている。そう、同じ空間にいるそれ自体が、嬉しくてしょうがないのだ。
サッカーダイジェスト編集部に私が配属されたのは95年。つまりカズの全盛時はまだペーペーだった。すぐにフランス・ワールドカップ予選がはじまり、日本代表は最終予選で悪戦苦闘。本誌論説ページでは『カズはいらない』というエポックメイキングな見出しが躍った。キングと編集部の間に尋常ではない空気が流れたのをよく覚えているし、実際に一定期間は口もきいてもらえなかった。
そんな私でも、数える程度の取材を通して大いに感化された。伝えたい、知っておいてほしいキングの言葉がある。
インタビューには三度同席させてもらった。いずれも鮮明に記憶している。
最初は2004年の年末、ライバル誌であるサッカーマガジンとのダブルヘッダーだ。どちらも表紙撮影があったため、キングはスーツも靴もなにかもかも2セット用意してきた。プライベートで外出している際も「自分がどう見られているか」をつねに考えていると聞いていたが、どっちにどっちを着るべきかについて、真剣な面持ちで熟考していたのが印象的だった。
二度目は、親友・北澤豪さんをインタビュアーに迎えての対談企画。恵比寿の高級中華料理店の一室を借りたところ、ボルサリーノでビシっと決めたキングとともに登場したのが、妻のりさ子さんだった。なんと円卓の隅っこに同席して、旧知の仲であるキーちゃんのトークに聞き入り、ふんふんと頷いていたのである。こちらはドギマギしっぱなし。いま思えば不思議な空間だったし、ほかの選手なら決してやらない(できない)。なにもかもが自然体だから、まったく嫌味がないのだ。
そしてもっとも思い出深いのが、2009年の取材だ。実兄の三浦泰年氏が本誌で連載していた「素晴らしきかな サッカーヤロー」を単行本化する運びとなり、巻頭で兄弟対談をしたいと打診したところ、快く承諾してくれた。
キングは兄のことを“ヤスさん”と呼んでいた。心底リスペクトしているからだろう。かつて聞いたことがない熱いトーンで、深く、鋭く、自身のサッカー観=人生観を掘り下げてくれた。
驚きの事実がたくさんあった。世の中の流行りに精通し、他のJリーグの試合をチェック(とくに若手選手を)しているだけでなく、プレミアリーグやチャンピオンズ・リーグも日常的に観戦している。クラブマネジメントへの造詣が深く、時事的・社会的なトピックスに敏感で、対談ではインテリな一面も随所で覗かせた。すべては、フットボーラーとしての自己を深めるための糧なのだ。
いちばん面白かったのが、こんな発言である。
「サッカーって絶対に極められないし、どれだけやっても答はないものだけど、サッカーは僕にとって自分が生きている証だから。今はまだ職業を書く前に『サッカー選手』って書いちゃう。いつかそこに『職業:カズ』って書けるようになりたいね(笑)」
そして50歳となった今につながる名言を残して、ヤスさんとの対談を締めた。
「英国のジョージ・ベストは、おじいさんになってもずっと語り継がれた存在だったけど、それはサッカーをやめてからも、毎日目標を持って過ごしたからだと思うんだ。自分の過去にすがるだけではやっぱりダメで、過去を語れるのは、今をちゃんと生きているからだということを忘れてはいけない。だから僕はずっと、今を生き続けたいね」
私はこの対談取材のテープレコーダーを、たまに無性に聴き返したくなる。
以前、横浜FCの練習を見学していた時、これは吉本新喜劇だな、と感じたことがある。意図せず非礼に伝わったのならお詫びするが、私はそこで唸った。
吉本新喜劇には絶対的スターの座長がいて、彼を主役にハチャメチャなストーリーが展開される。だが、座長はおいしいところを独り占めしてはいけない。脇役たちの一撃必殺のギャグを巧みに引き出し、とりわけ若手をいじり倒してチャンスを与え、才能を開花させなければならない(大袈裟だが)。変化と進化を追求できなければ、客はやがてマンネリを感じ、飽き飽きしてしまう。
キング・カズは、生粋の座長だ。オーラもカリスマ性も図抜けている。しかし当人は、ぐいぐいと若手や仲間を牽引するわけではない。むしろ並走している。つねに懐深く構え、若手や仲間のポテンシャルを引き出して輝かせることで、みずからも光輝くのだ。そんな名座長がいるチームは、ラッキーとしか言いようがない(川崎フロンターレの中村憲剛も名匠ではないだろうか)。
そしてそのアプローチはファンに対しても、ファンへの窓口であるメディアに対しても変わらない。大きな愛で包んでくれる。愛されないわけがない。
日本代表の内田篤人や香川真司らと交流する「カズ会」が有名だが、あれだけ年の離れた後輩に慕われるOBは他にいないだろう。もはやLIVING LEGEND(生ける伝説)にして、LIVING LEGACY(生ける遺産)である。
「どれだけ貪欲になれるか。ゴールに対する伸びしろはまだあると信じてます。それもこれも、周りに活かされてるからこそできることなんですけどね」
そこに、カズがいる幸せ。いつまでも噛みしめていたいものだ。
文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
【キング・カズPHOTO】最年長出場記録を更新。ド派手なピンクスーツ姿も披露!!
この日50歳となったキング・カズこと、三浦知良。その雄姿を称えんと、親族をはじめ、元僚友、チームOB、スポンサー関係者、そして300人近い報道陣が殺到したのだ。
そんなビジターを柔和な表情で迎え、ゲストルームに招いていたのが、横浜FCの奥寺康彦会長である。1970年代後半から80年代にかけてブンデスリーガで活躍した元祖・パイオニアは、50歳にして現役のカズをどう見ているのか。忙しいなか、話を聞かせてくれた。
「ここまでやること自体が凄いよね。長い間かけて積み重ねてきたものが滲み出ているし、メンタルをずっと高く保つことも簡単じゃないと思う。心の底からサッカーが好きなんだよ、カズは。代表を目ざす、ワールドカップに出るのが目標と口にするけど、普段の取り組みを見ていると、あながち冗談じゃないんだと思えるからね」
両雄が初めて会話を交わしたのは、1986年のキリンカップだった。19歳のカズはパルメイラスの、34歳の奥寺氏はヴェルダー・ブレーメンの一員として凱旋し、決勝で対峙したのだ。その試合後、プロ選手としての大先輩に歩み寄ったのがカズだった。“オク”が懐かしそうに当時を振り返る。
「あれから30年以上も経つんだね。あのとき、カズが訊いてきた。『戻ってきて日本のサッカーを盛り上げたほうがいいんですかね』と。だから言ったんだ。『もっとそっち(ブラジル)でやったほうがいい。自分のやるべきこと、したいことをしなさい。帰ってくることはないよ』って。たしかそんな会話だったと思う」
私は、いわゆるカズ・フリークではない。長きに渡って身近で取材を続け、その真髄やイズム、心の変遷を語り尽くせる方はたくさんいるし、2月26日の三ッ沢はそうしたベテランの記者・ライター陣が一堂に会していた。
そのうち何人かは新聞社やテレビ局のお偉いさんになっていて、普段はなかなか現場には来れないのだが、どうやら「カズ詣で」だけは免罪符のようで、子どものようにニコニコしながら取材をしている。そう、同じ空間にいるそれ自体が、嬉しくてしょうがないのだ。
サッカーダイジェスト編集部に私が配属されたのは95年。つまりカズの全盛時はまだペーペーだった。すぐにフランス・ワールドカップ予選がはじまり、日本代表は最終予選で悪戦苦闘。本誌論説ページでは『カズはいらない』というエポックメイキングな見出しが躍った。キングと編集部の間に尋常ではない空気が流れたのをよく覚えているし、実際に一定期間は口もきいてもらえなかった。
そんな私でも、数える程度の取材を通して大いに感化された。伝えたい、知っておいてほしいキングの言葉がある。
インタビューには三度同席させてもらった。いずれも鮮明に記憶している。
最初は2004年の年末、ライバル誌であるサッカーマガジンとのダブルヘッダーだ。どちらも表紙撮影があったため、キングはスーツも靴もなにかもかも2セット用意してきた。プライベートで外出している際も「自分がどう見られているか」をつねに考えていると聞いていたが、どっちにどっちを着るべきかについて、真剣な面持ちで熟考していたのが印象的だった。
二度目は、親友・北澤豪さんをインタビュアーに迎えての対談企画。恵比寿の高級中華料理店の一室を借りたところ、ボルサリーノでビシっと決めたキングとともに登場したのが、妻のりさ子さんだった。なんと円卓の隅っこに同席して、旧知の仲であるキーちゃんのトークに聞き入り、ふんふんと頷いていたのである。こちらはドギマギしっぱなし。いま思えば不思議な空間だったし、ほかの選手なら決してやらない(できない)。なにもかもが自然体だから、まったく嫌味がないのだ。
そしてもっとも思い出深いのが、2009年の取材だ。実兄の三浦泰年氏が本誌で連載していた「素晴らしきかな サッカーヤロー」を単行本化する運びとなり、巻頭で兄弟対談をしたいと打診したところ、快く承諾してくれた。
キングは兄のことを“ヤスさん”と呼んでいた。心底リスペクトしているからだろう。かつて聞いたことがない熱いトーンで、深く、鋭く、自身のサッカー観=人生観を掘り下げてくれた。
驚きの事実がたくさんあった。世の中の流行りに精通し、他のJリーグの試合をチェック(とくに若手選手を)しているだけでなく、プレミアリーグやチャンピオンズ・リーグも日常的に観戦している。クラブマネジメントへの造詣が深く、時事的・社会的なトピックスに敏感で、対談ではインテリな一面も随所で覗かせた。すべては、フットボーラーとしての自己を深めるための糧なのだ。
いちばん面白かったのが、こんな発言である。
「サッカーって絶対に極められないし、どれだけやっても答はないものだけど、サッカーは僕にとって自分が生きている証だから。今はまだ職業を書く前に『サッカー選手』って書いちゃう。いつかそこに『職業:カズ』って書けるようになりたいね(笑)」
そして50歳となった今につながる名言を残して、ヤスさんとの対談を締めた。
「英国のジョージ・ベストは、おじいさんになってもずっと語り継がれた存在だったけど、それはサッカーをやめてからも、毎日目標を持って過ごしたからだと思うんだ。自分の過去にすがるだけではやっぱりダメで、過去を語れるのは、今をちゃんと生きているからだということを忘れてはいけない。だから僕はずっと、今を生き続けたいね」
私はこの対談取材のテープレコーダーを、たまに無性に聴き返したくなる。
以前、横浜FCの練習を見学していた時、これは吉本新喜劇だな、と感じたことがある。意図せず非礼に伝わったのならお詫びするが、私はそこで唸った。
吉本新喜劇には絶対的スターの座長がいて、彼を主役にハチャメチャなストーリーが展開される。だが、座長はおいしいところを独り占めしてはいけない。脇役たちの一撃必殺のギャグを巧みに引き出し、とりわけ若手をいじり倒してチャンスを与え、才能を開花させなければならない(大袈裟だが)。変化と進化を追求できなければ、客はやがてマンネリを感じ、飽き飽きしてしまう。
キング・カズは、生粋の座長だ。オーラもカリスマ性も図抜けている。しかし当人は、ぐいぐいと若手や仲間を牽引するわけではない。むしろ並走している。つねに懐深く構え、若手や仲間のポテンシャルを引き出して輝かせることで、みずからも光輝くのだ。そんな名座長がいるチームは、ラッキーとしか言いようがない(川崎フロンターレの中村憲剛も名匠ではないだろうか)。
そしてそのアプローチはファンに対しても、ファンへの窓口であるメディアに対しても変わらない。大きな愛で包んでくれる。愛されないわけがない。
日本代表の内田篤人や香川真司らと交流する「カズ会」が有名だが、あれだけ年の離れた後輩に慕われるOBは他にいないだろう。もはやLIVING LEGEND(生ける伝説)にして、LIVING LEGACY(生ける遺産)である。
「どれだけ貪欲になれるか。ゴールに対する伸びしろはまだあると信じてます。それもこれも、周りに活かされてるからこそできることなんですけどね」
そこに、カズがいる幸せ。いつまでも噛みしめていたいものだ。
文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)