日南学園が先頭だが13年夏準優勝の延岡学園も追随し、宮崎日大、鵬翔なども(宮崎)
現在は、宮崎県も日南学園などの私学勢力が強くなっている。しかし、長らく宮崎県の高校野球は高鍋がリードしていく形だった。
野球後進県と見られていた宮崎県高鍋
そもそも宮崎県は九州でも野球後進県的な存在となっていた。県内から初めて甲子園に登場したのは高鍋だったが、何と1954(昭和29)年になってやっと実現するのである。甲子園出場県の記録としては、日本に復帰していなかった沖縄を除くと一番遅い記録となる。しかも、圧倒的に遅かったのだ。その後、宮崎県は南九州大会として沖縄と組むようになっていたこともあり、記念大会の後の59年からは毎年のように甲子園に駒を進めている。
その中心となったのが初の甲子園を記録している高鍋と、県内で一番の歴史を誇る旧制中学型の名門校で旧宮崎中学の宮崎大宮だった。これに、宮崎商あたりが絡むというのが主な図式となっていた。
宮崎県勢の甲子園初勝利は57年の宮崎大宮だが、辛うじて甲子園に出てきて、組み合わせがよければ、まあ1つくらいは勝てるかなというのが正直なところだった。
宮崎で公立勢に刺激を与えたのは都城が最初だった。ラグビーも強くやはり高鍋と競り合っていた。私立のスポーツ強化校という立場でもある。70年夏に始めて甲子園に登場して、77年、79年夏に甲子園に駒を進めると、田口 竜二投手を擁して84年春にはベスト4に進出して全国レベルの強豪校へ成長。桑田 真澄(関連記事)・清原 和博のPL学園相手に大接戦。延長11回に1点を失い敗れたものの、その力投は十分に評価された。同年夏にもやはり甲子園に出場し、PL学園に敗退している。
その都城と競うように登場してきた私立勢力が日向学院、延岡学園という形でつながっていく。その後、県内で実力派として台頭していくのが日南学園で、現在ももっとも安定した力を示している。一躍有名になったのは、甲子園の最速記録154キロを表示した寺原 隼人投手(ダイエー・ソフトバンク→横浜→オリックス→ソフトバンク)のいた01年夏のことである。
02年夏に甲子園初出場を果たした日章学園はブラジルからの留学生の活躍が話題となって、宮崎県高校球界に新たな風を吹き込んだ。敗れはしたものの、興誠と演じた大打撃戦は強烈な印象を与えた。
新鋭校の登場もあり、勢力のバランスは崩れていく高千穂の選手たち(2016年秋季県大会決勝戦)
04年夏には新興の公立校佐土原も甲子園に出場した。88年に創立した比較的新しい学校である。それまでは特に目立った活躍があったわけでもないが、一気に甲子園に届くと、初戦で塚原青雲を下して初勝利もものにしている。さらには聖心ウルスラや宮崎日大といった私学勢に交じって、かつては宮崎大淀として甲子園出場実績のあった宮崎工が、新校名となって初めて10年春に出場すると、12年夏にも出場。かつて読売ジャイアンツがキャンプ地としていた宮崎県総合運動公園球場を学校が買い上げて、専用球場となり、環境が整ったことも大きかった。
甲子園の実績としては、13年に延岡学園が、初戦で自由ケ丘との九州対決を制すと弘前学院聖愛、富山第一、花巻東を下して決勝進出の快進撃。前橋育英に競り負けたものの、県勢初の決勝進出は大健闘だった。校舎裏の桜をイメージしたという薄いピンク地のユニフォームも話題になった。
また、都城商も09年夏にベスト8に進出している。優勝した中京大中京に敗れはするが、三重や智辯和歌山といった甲子園でも実績のある学校を倒しての進出は見事だった。
他にも、延岡工や宮崎南なども甲子園に届いている。ただし、継続的な甲子園出場は果たされておらず、このあたりはその年によって勢力バランスがどんどん変更しているようだ。いずれにしても、現在は日南学園の存在が新たなリーダー格となりそうだ。南九州に限らず広く全九州から関西地方までの野球少年を集め、質の高い野球をしているといっていいだろう。
宮崎県は人口の割には私立校が多いのも特徴ともいえるが宮崎学園、鵬翔などもそんな一つだ。そんな中でこの秋、過疎化の進んでいる高千穂町の高千穂が県準優勝で、九州地区大会に進出。21世紀枠の候補校にも推薦されて、地域創生の力になると期待されている。
(文:手束 仁)
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