純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 戦国時代の本でも映画でも、たびたび登場するのが、信長の清洲城。1560年6月12日未明、信長はこの城で「人間五十年、夢幻の如くなり」と『敦盛』を舞うと、日の出とともに飛び出し、24キロを一気呵成に疾駆して、昼には桶狭間の戦いで戦国の世を一変させてしまった。まさに天下布武。その大転換の起点が清洲城にほかならない。


 もっとも、尾張の大ウツケ、と呼ばれた信長が生まれ育ったのは、名古屋城。と言っても、当時は、いまの二の丸庭園のあたりに屋敷があって、周囲には村と寺や神社がちょぼちょぼあるだけ。あとは雑木林だ。尾張国の在京守護大名は斯波家。その守護代が尾張国府清洲城の織田家。信長は、その分家筋にすぎない。しかし、1548年、14歳で、美濃国岐阜城の戦国大名、斉藤道三の娘と政略結婚。1554年、本家が斯波家に下克上を仕掛けると、20歳の信長は、これを謀反として成敗し、代わって自分が清洲城に入る。


 名古屋城の西北6キロ。関ヶ原と三河を結ぶ交通の要衝。東海道最大の町。桶狭間の後、信長は岐阜城、安土城と居を移していくが、1582年、本能寺の変で殺されてしまったとき、その後始末の清洲会議は再びこの城で行われた。関ヶ原の戦いにおいても、徳川方の後方拠点となり、江戸時代になると、尾張国主として家康九男の義直の城となった。これらの意味でも、この城の歴史的な意義は、あまりに大きい。


 しかし、もとより地震と洪水で、この地は弱く、また、関ヶ原後、大坂城に籠もる豊臣家との戦いに備え、関ヶ原経由とは別の伊賀〜郡山〜河内の南進路を整備すべく、1609年、家康は、新国府として、大阪城に劣らぬ大名古屋城の建設を諸大名に命じる。ここにおいて清洲城の天守は新城の西北隅櫓に移築、その他の石材なども大半が持ち出され、残ったのはわずかに天守台とその南の清洲宿のみ。東海道は宮宿(熱田神宮)から海路で桑名に抜け、甲賀を越えて草津へ出ることになり、関ヶ原経由は脇道扱い。おまけに北を流れていた五条川が氾濫蛇行して旧城下町を直撃し、本丸東側まで侵食。周辺は新田開発。かくして、清洲城は跡形無くなり、江戸の一時期、ほとんど忘れ去られた。


 しかし、1830年代になってようやく、清洲代官が史跡としての保存の必要性に気づき、地元有志が顕彰を図る。明治維新においては、元老山県有朋が名古屋城などを陸軍管轄として、その天守・城郭の保存に努め、清洲城址もまた、宮内庁直轄の御料地となり、古墳などと同様、歴史にその姿を留めるはずだった。


 ところが、鉄道だ。関西では、神戸〜大阪〜京都が1877年に開通。84年に大垣まで延伸。そして、当初は内陸開発のため、このまま岐阜を通り、東進して中山道ルートで東京と繋がるはずだった。このための線路や橋梁などの建設資材は、神戸で製造、四日市港で上げ、別に北上線を敷いて、大垣まで届ける計画だった。ところが、これが唐突に知多半島の武豊港に変更。ここから、86年、名古屋城西南の沼地をむりやり埋め立てて作った名古屋駅を経て、岐阜まで濃尾平野をまっすぐ縦断する名古屋線(現在の東海道本線)が作られることになる。


 この線路が非常に奇妙なのだ。この名古屋線は、沖積平野にあって極端に地盤脆弱で、繰り返しの地震による液状化、木曽三川の洪水や鉄橋など、問題山積であることは明白だった。そしてなにより真っ平らな平野にあって、いくらでも避ける余地はあったのに、わざわざ畏れ多い天皇陛下の御料地であるはずの清洲城址を踏みつけ、これを破壊して、線路で真っ二つに分断してしまったのだ。


 当時、鉄道計画の中心にいたのは、井上勝鉄道庁長官。そして、初代大蔵大臣松方正義と、これにぶら下がる政商川崎正蔵の神戸川崎財閥。だが、彼らの背後にいたのは、明治の豊臣秀吉、すなわち、鉄道推進論者の宮内卿にして初代総理大臣を兼任した伊藤博文にほかならない。じつはこのころ、明治政府は新たな危機に直面していた。77年に起きた九州の西南戦争はかろうじて平定したものの、80年には、その残党の不平士族たちが、大阪を拠点に豪農豪商をも取り込み、門閥政府に対して国会開設を要求する自由民権運動を起こしていた。


 明治十四年の政変(1881)で、伊藤が政府内民権派を追放して独裁体制を固めたものの、西南戦争の戦費始末のための松方デフレのせいで、運動は貧農や庶民、兵士まで広がり、暗殺や強盗、さらには爆破テロと武装蜂起による政府転覆計画へと過激化しつつあった。84年の飯田事件では、名古屋城内の兵士がその火薬庫を爆破して蜂起する計画が発覚。実際に大量の偽造紙幣による資金調達も行われていた。さらに大阪では、朝鮮王朝に対するクーデタとの連携が図られていた。西南戦争を繰り返さないためにも、伊藤にとって、名古屋、そして大阪の制圧路の確保は急務であり、名古屋線はそのためのもの。


 しかし、それにしてもなぜ、すでに史跡としての高い意義が認められていた清洲城址を、伊藤は宮内卿の兼任地位を利用してまで破壊する必要があったのか。自由民権運動は、あくまで立憲君主制を称えるもので、むしろ急進的愛国主義として天皇擁立、姦臣排除を唱っていた。とくに名古屋は、尾張徳川の初代義直の時代から尊皇の気風があり、明治維新においても、むしろ率先して東海道の譜代を勤王方にまとめ、新政府軍の便宜を図っている。へたにこの城址を避けて線路を敷設したとしても、もしもここに錦の御旗を掲げる武装民権派が立て籠もった場合、鉄道の方が容易に分断されてしまい、制圧路としての用をなさない。くわえて、天皇直轄の御料地に軍を差し向ける、というのは、大いにはばかられる。まして、信長の桶狭間よろしく、ここから疾駆東征に打って出られたら、名古屋はもちろん、東海道もやつらの手に落ちる。だったら、いっそ先に壊してしまえ、ということだろうか。


 その後、この重要な史跡、清洲城址は、まるで何か呪わしいものを結界で封印するかのように、さらに新幹線の線路、名古屋第二環状自動車道と、必要以上に踏みつけられ、いよいよ跡形無きものとされた。清洲町制百周年を記念して、1989年、対岸に鉄筋コンクリート製の「清洲城」のようなものがまったく新規に建設され、観光博物館として利用されている。しかし、本来の天守台は、まさに東海道の線路の真下あたり。そもそも、信長のころには無かった五条川などというものが、強固な河川改修とともに、かつての城郭の中心を南北に貫き、これらの川と線路、道路で縦横に切り刻まれてしまっている以上、信長のころの清洲城とその城下町の繁栄の様子は、いまとなっては思い浮かべようもない。

google mapにNetwork2010作成の「清洲城下図」を重ねたものhttp://network2010.org/nc400/castle/

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)