『忠臣蔵』の裏事情:吉良こそが将軍家/純丘曜彰 教授博士
1702年12月14日に事件は起こった。赤穂義士討入り。吉良上野介(こうずけのすけ)、当時60歳。4200石の旗本(徳川家の直臣)。とはいえ、吉良家は、武功を挙げて旗本になったわけではない。
後に室町幕府を開くことになる足利家は、その名のとおり栃木県足利の出だが、それ以前、鎌倉時代の承久の乱(1221)で三河国(愛知県東部)守護の位も得る。そして、この地の分家筋の足利家が地名を取って「吉良家」と呼ばれた。室町時代になると、吉良家も天皇警護で京詰めとなり、代わって吉良家のさらなる分家の一色家が三河国守護とされた。しかし、一色家は、伊勢湾一帯に勢力を拡大し、あまりに強大になりすぎたため、1440年、足利本家が、三河土着の細川家(後の肥後熊本国主)命じて、これを暗殺。以後、同地は混乱。その中で、土豪の松平家(徳川家)が支配を確立していく。
ところで、駿河国(静岡)の今川家も、もともとは足利の分家で、吉良家に次ぐ家格。しかし、戦国時代の1549年、今川家が三河まで進出。吉良家の義安(13歳)と松平家の家康(6歳)を人質にした。だが、公家かぶれの今川家においては、当然、親族で、それも上位の吉良家の御子息様のもてなしと、松平某とやらのガキのあつかいは異なり、ここで家康は、三百年以上の歴史を持つ「吉良家」の身分というものを、いやと言うほど思い知らされたことだろう。
また、歴史の教科書だと、室町幕府は、足利義昭を最後に、1575年に信長に京を追われて潰えたことになっているが、実際は、その後も毛利家の庇護の下、将軍として備後の鞘(福山)に亡命幕府としての権威権限を保ち続けていた。むしろ1582年に本能寺の変で信長の方が先に死に、87年、九州平定に向かう秀吉がわざわざ会いに伺い、88年、義昭は京に戻り、ようやく将軍を解官。その後も秀吉に山城槙島1万石の「大名」として遇されている。
ただ、子が絶え、足利の本家筋は断絶。このために、吉良家が足利家を継ぐ形となった。つまり、吉良家は、名目上こそ江戸幕府の「旗本」ということになっているが、徳川家からすれば、吉良家の方が三河国の本来の主君で、将軍家としても先任上位。まして、いかに実権があろうと、三河の土豪上がりにすぎない徳川家は、直接に皇室と話すには家格が違いすぎる。そこで、吉良家を特別な「高家」とし、徳川家を皇室に取り次ぐ儀礼典範の役目をお願いしていた。
とはいえ、吉良のじじい、すこぶる評判が悪い。本来ならば将軍の主家なのに、土豪上がりごときの徳川家配下なのが気に入らん、というのは、少しはわからないでもない。だが、こいつ、それだけでは済まない。出羽米沢30万石の上杉家から嫁を取り、義父が1664年に嫡男跡継の無いままに亡くなると、自分の息子(三歳)を上杉家の末期養子(死後の跡継)に送り込み、上杉家を乗っ取って、豪邸の新築から、日々の贅沢まで、上杉家にツケを回す。高家としても、勅使接待を任じられた大名たちの指南をすることになっているのだが、あちこちで陰湿なイジメを繰り返し、金品贈答の賄賂を強要しており、あの1701年3月14日午前10時の事件は、起こるべくして起こった。
吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭(たくみのかみ)、34歳。赤穂5万石は、安芸(広島)42万石、浅野家の分家。信長、秀吉の家臣を経て、関ヶ原で徳川方に付き、譜代大名になった家柄。とはいえ、江戸生まれの江戸育ち。所領赤穂に行ったのは、家督を継いだ17歳になってから。本所の「大名火消」として、旗本の「定火消」や町人の「町火消」と伊達を競った。(江戸の大火など、火消が消せるようなものではなく、実際は、燃えさかる炎を背景に、人々に度派手な衣装を何度も「お色直し」で披露していただけ。どのみち借家で財産も無い庶民連中は、火事は「江戸の華」と思っており、むしろ復興再建需要で景気が良くなるのを歓迎した。また、本所には吉良邸があり、恨みは、このころからの因縁かも。)
こんなアホでヤンチャな若手の殿様からすれば、吉良のじじいがなんであんなにえらそーなのか、まったく理解できなかったにちがいない。ただ、やなやつ、やっちまえ、というだけだったのではないか。周囲にしても、名門だかなんだか知らないが、武家のくせに、殿中差(短い儀礼用の刀)の柄打(刃を抜かず、柄の先で喉元を突く)の一手も返せず、まともに眉間に傷を受けるとは、なんとも情けない、というのが本音だったのではないか。一方、徳川家は、本来の主家が自分の殿中で自分の譜代に切りつけられてしまった、ということで、勅使の来訪中にもかかわらず、あわてて内匠頭を即日に切腹させ、「高家」に詫びを示す、という混乱ぶり。
浅野家ほかは、喧嘩両成敗、を主張したが、それは、まさに足利家が定めた室町幕府の建武式目の話。江戸幕府は、理非吟味を旨とし、喧嘩両成敗の慣習を排している。しかし、それなら、理非吟味も無しの即日切腹は幕府武家法にも反している。いろいろ始末に困って、翌1702年末の討入りは、上杉家も関与を禁じられ、いわばお膳立てされたもの。内匠頭が伊達を誇った度派手な火消し装束の四七名。あまりにあっけない吉良の最期。
吉良の養子(18歳)は、邸内にいたが、気絶した、とかで、生き延びた。しかし、幕府は、これを、武家として「不届き」とし、吉良家はお取り潰し。以後、諏訪家の高島城に幽閉。06年、21歳で病死。一方、浅野家は500石の旗本に返り咲き、討入りを果たした大石家も、安芸の浅野本家で元通り1500石に。徳川家としては、いろいろあったにせよ、この事件は、長年ずっと目の上のたんこぶだった足利家を始末する良い口実となり、さてもさても、めでたしめでたし。
ところで、年末。忘年会だ。無礼講でハメを外すのもいいが、物事には過去の、深いいきさつというものがある。目の前のことだけを見れば、その通りなのだが、そんな明白なことは上司も会社も重々に承知。ただ、その通りにはできない、口にもできない事情があり、きみがそれを知らないだけ。酔っ払っても、放言で藪蛇はまずい。また、家格、社格というものもある。いくらいまカネがあっても、権勢を誇っていても、しょせん直近の成り上がりでは、どうにも身の及ばぬ世界がある。明治、江戸、室町のころから名を守り、事業を続けてきた者は、三代前もわからぬ庶民には想像もつかないほど広い人脈や支援者、そして本人自身の教養や技芸を誇っていたりする。こういう名家名門は、若造だろうと、老いぼれだろうと、一般の年功序列では計れない。それを知らずに、生意気だ、などと口にしただけで、きみの方が始末される。一方、名家名門の生まれでも、それ相応の才覚も無く、家の恥、名の穢れになるような行状では、年来の嫉妬や遺恨に、一族まるごと、お取り潰しのいい口実を与えるだけ。
いろいろ思うところはあっても、けして口に出さず、ただニコニコと笑って、いやいや今年もお世話になりました、来年も何卒よろしく、と、毒にも薬にもならない戯れ言に興じて、お開きまで場をつなげ。刃は、抜いたら、それで負け。たとえ抜くバカが出ても、柄で抑えていなし、まあまあ、もう酔ってしまって、難しいことはわからん、と、一力茶屋よろしく寝てしまえ。ひとときも気を緩めぬ心得とはそういうもの。