村山 昇 / キャリア・ポートレート コンサルティング

写真拡大 (全5枚)

〈じっと考えてみよう〉

健(けん):「将来つきたい職業は?」って課題作文、うーん、どんな職業がいいのかわからないよ。いまさら「プロ野球選手になるのが夢です」なんて書けないし。その点、悠人はいいよな。自分んちが大きな店やってるから、それを継げばいいんだろう。

悠人(ゆうと):あぁ、長男だから継がなきゃだめだろうなぁ。店をやっていくことが自分に合ってるのかどうか、わからないけど。

健:でも、将来が決まっていると、どんな勉強やればいいかがはっきりするからいいよな。進学先だって、就職先だって悩む必要なしだ。

悠人:自由のないことがそんなにいいことかな? ぼくは自分の将来を選べないんだよ。でも、健は選べる。自分のなりたいものに、なんだってなっていいんだ。100%自由があるわけさ。うらやましいよ。

健:自由がありすぎても困りものさ。いっそ、だれかが決めてくれたほうがラクなこともあるよ。


□就職先について、あなたは悠人のようにある程度決められている人生がいいだろうか? それとも健のようにまったく決まっていない人生がいいだろうか?
□悠人は自分には自由がないと言っているが、ほんとうに自由がないのだろうか。
悠人に自由があるとすればどんな自由か?
□あなたは「自由がありすぎて困る」と思ったことはあるか?


人類の歴史を振り返ってみると、人が自由に意見を表明できたり、自由に職業を選べたりするようになったのはつい最近のことです。日本も江戸時代(つい150年前)までは、表現の自由は制限され、身分制度があって職業や階級は家系によって決まっていました。言いたいことを社会に広めようとしたり、身分制度を逸脱することは、命を危険にさらすことでした。

いまでも世界中を見わたせば、人の自由が大きく制限されている国は多い。ですから、今回の設問のように、自分がなりたいものにはなんだってなれる自由を手にしていながら、その自由にとまどってしまうというのは、自由を持っていない人からすれば信じられない悩みにちがいありません。手に入れた自由をどう生かすかというのは、人類史からみれば比較的新しい問題であり、未来への大事な課題でもあります。

さて、設問文をみてみましょう。悠人も健も将来つきたい職業について「これだ」という具体的な望みはありません。もちろん、いまの時点で望みがないことはべつに悪いことではありません。中学、高校、大学と、勉強やその他の活動をやっていくなかで、じょじょに考えていけばよいものです。しかし、大人になれば自動的にやりたい仕事がみえてくるのかといえば、そうではありません。

実際のところ、すでに職業を持った大人たちでさえ、「これがほんとうに自分のつきたかった仕事だろうか」と考えている人はたくさんいるでしょう。深く強い理由を持たずに、たまたまのなりゆきで就職するケースが多いのです。ただ、そうしてついた職業であっても、働いていくうちにその職業の奥深さを発見し、やりがいを見出していくことはじゅうぶんにあります。

ありあまる自由のなかで、人は2種類に分かれていきます。1種類めは、自由をどう生かしてよいかわからず、できればだれかに「ここはこれを選びなさい」とか「将来はこのレールの上を走って行きなさい」とか言ってほしいと願う人です。この人は自由をすすんで活用することを敬遠します。言ってみれば、自由という心地のよいソファに寝ころんで、動くのがやっかいだと思っている状態にあります。もし、あなたが、悠人のように就職がある程度決められている人生をうらやましく思うのであれば、その姿勢はこの種類に属するものです。

そして2種類めは、自由を積極的に活用し、どんどん自分の進むべき道を創造していく人です。この人は自由を楽しむことができ、自分が選んだことに対し責任を負っていこうとします。それでなにか失敗したり、痛い目にあったりしても後悔しません。いわば、自由という剣(つるぎ)を武器にして、人生を切りひらいていこうとする姿勢です。

さて、悠人はほんとうに自由がないのでしょうか。店を継がなければならないという一点ではたしかに自由はありません。しかし、長い目で見れば、じゅうぶんな自由があると言えないでしょうか。その店を自分のアイデアで変えていく自由。あるいは、何年か商売経験を積んだのちに、それを生かしてまったく新しい商売を始めてみる自由。そう考えると、悠人はやはり自分の未来を無限に変えていく可能性を手にしています。

自由があるかないかという観点からすると、じつは悠人も健もどちらも大差はありません。あるのは、まぢかの就職先が多少見えているかいないかという表面的で小さな差です。そんなことより二人にとってほんとうに大事な問題は、心の姿勢として、自由をおおいに生かそうという意欲に満ちているかどうかです。

欧米や日本などの先進諸国は、自由というものを2段階にわたって獲得してきたといえます。1段階めは「〜からの自由」の獲得です。そして2段階めに「〜への自由」の獲得です。

最初の自由は、人びとが制度上の束縛や制限から自由になることをいいます。民衆は長い時間をかけて権力者と戦い、社会が基本的人権を保障して、表現の自由や法のもとの平等を認めることを実現させました。この自由は簡単に言えば、「不自由な状態からの自由」です。

これを土台にして、一人一人が縦横無尽にどんな考えをするか、どんな行動をするか、どんな表現をするかというのが次の段階の自由です。すなわち、「自主的な創造への自由」「自由を無限に生かすことへの自由」です。この二段階めの自由こそほんとうの自由です。

自由という名のソファにうずくまっているのはラクです。でも、座ったままで見る景色は限られています。同時に、自由という名の剣は重くて扱いが難しい。けれど、その剣によって目の前の景色をどんどん切りひらいていけば、広い展望を得ることができます。

消極的に自由にひたる生き方と、積極的に自由を活かす生き方と───あなたはどちらを選ぶか。それもまた自由です。



[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]