純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 人権週間だ。だが、人権って? 人それぞれ、なんて、もっともらしいことを言って茶を濁す? 答えは『世界人権宣言』として、1948年12月10日に国連で決議されている。それにちなみ、毎年12月10日が「世界人権デー」。そして、この宣言、全30条に書かれているものが「人権」。とはいえ、わりとぐちゃぐちゃな構成で、反差別と生命の安全に始まり、奴隷・残虐・無法・干渉の禁止、所有・信仰・表現・交流・結社・選職・移動移住・結婚家族の自由、保護・教育を求める権利など。休息する自由、なんていうのもある。さらには、参政権や著作権も含む。一言(二言?)でいうと、第一条に記されている「自由と平等」。フリーメイソンの三信条から「博愛」が落ちたもの。それが「人権」。


 てなことを言ったって、世界を見てのとおり、そんなのがうまく実現できているわけじゃない。あくまでも達成すべき努力目標。なんで簡単に実現できないのか、というと、これが人権、つまり権利だから。権利や義務というのは、モノではなく社会的な規範で、それも権利は、本人の側に本質が無い。国や他人が義務を果たすことによってのみ、権利は外側から実現する。つまり、もともと本人自身でどうこうできるものではない。しかし、国や他人は、わざわざ進んで義務を負って、他人の権利を実現してやろう、なんて、面倒くさいことをしたがらない。それどころか、したくない動機ばかりが大いにある。


 人権は、米国独立戦争においてすでにいわゆる「人権宣言」(1776)としてすでに表明されているが、その後のフランス革命とナポレオン戦争で、各国各地のメイソンリー諸団体同士がぐちゃぐちゃにあい争って、逆に王政復古。それが1830年代にようやく再結成してきて、人権が現代社会の理想目標として掲げられることになる。


 この人権、歴史的には、三つの理論で進展してきた。第一は、市民権。国や他人から人権を与えてもらいたいならば、まず自分が国や他人に兵役や納税などで参加協力しないといけない、というもの。つまり、双方向義務だ。親が義務を果たしていれば、子は最初から自動的に自由で平等な人権が与えられるが、それでも、古代ローマから現代合衆国まで、その義務はかなり重く、あえて離脱したい、という人もいる。この理論の特徴は、自分が義務を果たさないと、人権も失う、ということ。反逆者や犯罪者に人権なんか無い、死刑、それどころか、即時射殺も当然だ、という考えは、この発想。そうでなくても、市民権を持つ者と持たない移民、市民権を苦労して新規に得たにしても劣等市民扱い、と、この発想は、かえって差別の温床になってしまっている。


 第二は、実定法。『マグナカルタ』(1215)、『権利の章典』(1688)、さらには『ナポレオン法典』(1804)などの刑法や民法、訴訟法、徴税法の体系。これは、国や他人の好き勝手な自由を法律で制限することによって、実質的に人権の余地を開けるもの。言わば、外堀を固めて、中に自由と平等を確保する。たとえば、人を殺したり、傷つけたりしてはいけない、と法律が国や他人に義務づけることによって、実質的に生命の安全が守られている。しかし、これは、もとよりむしろ国や他人の自由を制限するもので、そのせいで、実定法化されていない、罰則の無いことなら、どんなズルいこと、どんなをヒドいことをやっても自由にいいんだ、などとと考える連中を多く生み出してしまう。


 第三は、自然法。引力万有のごとく、すべての人間は生まれながらに天賦の人権を持つ、という考え。最初のホッブズ(1651)は、万人が自分の人権を主張すると、万人の万人に対する闘争に陥ってしまう、とし、それゆえ、各自が自分の人権の一部を抑制割譲して、社会理性(均衡配慮)としての国を社会契約として作った、とする。この発想では、国は闘争の防止解決のみを消極的に委託されているにすぎなかった。ところが、その後、人権の実現拡大という積極的な役割まで国に期待する人々も出て来て、パレート最適化(再配分によって既得権者を不利益にせず、別の者の利益を捻出する)、さらには自然の不自由や不平等の解消さえも求めるようになり、どんどんと自由を制限する実定法を増やそうとする。このため、同じ自然法人権論の中でも、小さな政府による自由主義、と、大きな政府による平等主義、が争うことに。


 現代の人権問題の困難は、ひとつには、第一の双方向義務の市民権人権論と第三の一方的要求の自然法人権論が原理的に真逆で相容れないこと。たとえば、大量殺戮兵器を準備しようとするテロリストなどのように、他人の生命の権利まで侵害しようとしているやつは、第一の市民権人権論からすれば、保護の対象ではなく、むしろ「人権の敵」として国や市民を挙げて抹殺すべき対象、ということになる。が、自然法人権論からすれば、テロリストであろうと人間であり、確たる犯罪の実行、準備の証拠も無しに、また、しかるべき公判手続も無しに、容疑のみで殺すことは許されない。


 もうひとつには、不自由や不平等は人権侵害のせいとは限らない、ということ。身体の障害、病災害など、運の不平等。いくら実定法で国や他人による人権侵害を抑制しても、この問題は解決しない。しかし、市民権人権論に基づくせよ、自然法人権論に基づくせよ、国や他人は、自分たちのせいでもないのに、これを平均水準まで補填してやらないといけない義務を負うのか。しかし、たとえば、平均以下ながら自力で苦労して生活を成り立たせている人々からも税金を取り立て、無力な人々の生活を平均まで生活保護で引き上げてやるのは、公正か。国庫は無尽蔵の財布ではなく、だれかの生活向上は、ほとんどの場合、だれかの負担増によって賄われている。これは、むしろ国を介した人権侵害ではないのか。そんなことまで政府に委任した覚えは無い、と、今日、米国のティーパーティを初めとして、同じ自然法人権派から、人権を口実にむやみになんにでも介入してくる国にノーを言う動きが出て来ている。


 さらにまた、個人のレベルでも、近年、実定法人権論をはるかに越えて、自然法人権論が爆発的に肥大し、あちこちで摩擦を生じている。たとえば、まずい店の口コミは名誉毀損か。ブサキモに酌をしないのは人種差別か。まずいものはまずい、いやなやつはいや。そんな表現の自由、心情の自由にまで、人権を理由に人権侵害されないといけないのか。どちらの側もとりあえず、人権問題だ、と大声で喚き散らせば、相手がひるむ。それに付け込んで、他人の人権を踏みにじってでも自分の好き勝手を拡大するのは、まさに万人の万人に対する闘争。


 人権を大切にしよう。それはそうだ。しかし、そんなきれいごとを口先で唱えるだけで、やり過ごせるほど簡単な問題ではない。これだけ世界が狭くなり、あちこち人間が接しあって暮らしている以上、自由だ、平等だ、と言っても、調整できる余地は、ほとんど残されていない。だれがか動けば、だれかを傷つけてしまう。だが、自分だって傷つけられたままでいたくないから、アクションを起こし、それがまた別の人権問題を引き起こす。殺生して肉を食べているように、それどころか空気を吸うように、我々は、日頃、あらゆることでなんらかの人権侵害をやらかしてしまっていると思った方がいい。他人の自由と平等のための余地をより広く空けてあげられるように、せめてむだに他人の人権を侵害していたりすることがないように、この一週間、身の回り、毎日のことを見直してみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)