日野 照子 / フリーランス

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なんでも言っていいと思ってしまう万能感

先日放送されたNHK報道首都圏「過剰反応社会 どこまで配慮しますか」(2015.11.6放送)。子ザルにシャーロットと命名してもよいかとイギリス総領事館に問い合わせた動物園、長年表紙を飾ってきた昆虫の写真をとりやめた文具メーカー、アルコール依存症への配慮としてCMの表現を自粛するという酒類業界。番組では、クレイマーの声に「過剰反応」してしまう企業の事例を紹介し、もっと毅然とする勇気も必要ではないかというまとめでした。

これらを過剰というのかどうかも議論が分かれるところでしょうし、あげられた事例は種々雑多でひとつの結論に持っていくのにはなじみにくいようにも思えました。特にモンスターペアレントの問題を並列で語るのは少々筋が違う感じがしましたが、少なくとも人々の生の声が直接、企業に届きやすくなっているのが現状なのは間違いありません。

子ザルにイギリスの王女と同じ名前は失礼ではないかと動物園に電話やメールをする。昆虫の写真は気持ちが悪いと文具メーカーに苦情を言う。実際に、自分の思ったこと、感じたことを「なんでも言っていい」と思う人が増えているのでしょうか。

このことを、心理学者の榎本博明氏は番組の中で、『「万能感」を持っていて、感情を衝動のままに発信してしまう』と表現しています。そしてそれをネットが助長するというのが番組の説明です。

ネットによるコミュニケーションの特徴は『?空間的制約からの解放、?情報発信の容易さ、?社会的存在感の希薄さ?平等性、の4点(*1) 』あります。どこからでも簡単に、どこの誰とも知られずに、誰でも情報発信ができる。これらの特徴から日常的にネットを利用していると自分も、「なんでも言っていい」と思ってしまう気持ちはなんとなく理解できます。

見知らぬ他人に、いきなり失礼極まりないツイートをしている人もよく見かけますし、ネット通販の商品レビューやニュースへのコメントなどで、罵倒するような暴言を書きこむ人も多くいます。身近な人に面とむかっては言えないようなことでも平気で書けるのがネットの特徴なのです。そして、その行為がなんら否定されず普通のことになると、今度は電話やメール、ひいては対面でも「なんでも言っていい」と思ってしまうようになるのではないでしょうか。

すべての人へ配慮をしなければならないと思ってしまう心理

受け手の側も問題を抱えています。もともと、顔が見えて手の届くところにいる人と接することがコミュニケーションの基本です。私たちは家族、近所、学校、会社、趣味のサークル等々、誰しもがいくつかの小さなコミュニティに所属して、その中で生きています。日常生活の中では、この小さなコミュニティの中で必要な気配りというものがあり、それ相応に忖度することで円滑な人間関係を保っています。いわゆる「空気を読む」というような、他人の心情を思いやる類のコミュニケーションが身についているのです。

けれど、ネットという広大なコミュニティで、どこの誰かもわからない、どんな背景や思想を持つ人がいるかもわからない、膨大な量の人々に対して、同じように気を配ることは不可能です。にもかかわらず、つい近くにいる人の時と同じようにその声を聞いてしまい、それが「感情的」であればあるほど、その顔のない人に配慮しなければならないと思ってしまうのではないでしょうか。

実際には、『ネットの多くが今も「文字」による言語コミュニケーションである。メッセージを「字義的に」解読することはできても、そこに込められた送り手の感情までを理解することは難しい。(*1)』ものです。それが、どれくらい重要度を持って発信された言葉なのかも、受け手側にはわかりません。そして、わからないからこそ、時に「過剰」に反応してしまうのです。

コミュニティの大きさに合わせてコミュニケーション方法を使い分ける

自分が属する小さなコミュニティでは言わないようなことを、大きなコミュニティゆえに言ってしまう人々と、小さなコミュニティでは配慮した方がいいけれど、大きなコミュニティでは配慮しなくていい人々の声にいちいち反応してしまう企業。「過剰反応」はこのコミュニティの大きさの違いを混同することから生まれているのだと思えてなりません。

たとえば、家族や友人にアルコール依存症の人がいたら、目の前でビールをごくごくと音をたてて飲んだりはしないでしょう。ビールをおいしそうに飲むシーンを見せたりしないように気を配るかもしれません。けれど、だからといって社会全体からそのシーンを排除する方がいいということにはなりません。小さなコミュニティでの配慮を、大きなコミュニティでやろうとすると、どう考えてもキリがありません。世の中には実に様々な事情を抱えた人がいて、どこでいつ誰が見るかもわからない世界で、一人の人も傷つけないなどということができるわけがないからです。

私たちにできることは、コミュニティの大きさに合わせてコミュニケーション方法を使い分けるスキル、広い世界で「何でも言っていい」と思っている人を、いわば「うまくかわす」コミュニケーション・スキルを身に付けることではないかと考えています。

「当事者には謝るけど、野次馬には謝らない」というスキル

ネットの一部で「炎上芸人」と揶揄されることもある有名ブロガーちきりん氏は、その著書(*2)の中で、『ネットの外で話していることを無防備に書くと〜中略〜批判が押し寄せる』ことについて、『強者が弱者を切り捨てる(ように見える)』と怒りを呼ぶが、大半は本気で怒っているわけではなく、炎上に参加して『正義感を振り回している』という意味のことを書いています。

確かに、ネットのあちらこちらで起こる小さな炎上騒ぎを見ていると、これに当てはまるケースは思いのほか多いように思います。最初の発信者が当事者だったとしても、炎上していく中で怒っているのはおおむね当事者ではない第三者です。この「怒っているのは当事者ではない」ことが、案外キーポイントになります。

ツイッターで炎上しがち(本人談)な小田嶋隆氏が、先の報道首都圏の中で炎上に対し、『当事者には謝るけど、野次馬には絶対に謝らない』ということを言われていました。『当事者の意見を第一に置くべきで、尻馬に乗っている人たちの声に動かされない方が、結果としては正しいところに着地できるんじゃないか』というのがその趣旨です。

「当事者には謝るけど、野次馬には謝らない」というのは、まさに今のネット社会に適したコミュニケーション・スキルではないでしょうか。クレイマーを「世間」という漠然としたものととらえず、本当に害をこうむっている人とそうでない人を分けて考えるところからはじめれば、適切な解決策を考えられるようになると思うのです。

「過剰反応社会」というような社会問題を語るとき、どうしても他人の感情や思考を変えようと言う方向に話が向きがちですが、万能感を抱き、なんでも言っていいと「誰かが思う」ことを変えるのは難しいものです。相手が変わることを期待せず、受け手としてのコミュニケーション・スキルを身に付けることが、過剰に反応せずに対処できるようになる近道だと思います。

参考書籍

*1福村出版「現代社会と応用心理学5クローズアップメディア」日本応用心理学会企画、浮谷秀一・大坊郁夫編

*2 文芸春秋「「自分メディア」はこう作る!大人気ブログの戦略的運営記」ちきりん著