表現で国を越える 世界が認めた演劇人・笈田ヨシが語る芝居、人生とは?

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国境を越えて表現し続けてきた人がいる。笈田ヨシ(おいだ・よし)。文学座、劇団四季を経て、世界を代表する演出家ピーター・ブルックの招待により渡仏。役者・演出家としてキャリアを重ねてきた演劇人だ。

最近では遠藤周作の小説を元に、マーティン・スコセッシが監督した映画『沈黙』に出演。80歳を超えた現在も国内外で精力的に活動し、1992年にフランス政府から芸術文化勲章シュバリエを、2007年には同オフィシエ、2013年は同コマンドゥールを受章した。また彼の生きざまをまとめた著書『俳優漂流』は17カ国で翻訳・出版されている。

近年、海外へ出る日本人俳優・演出家は増えてきた。しかし笈田は、それ以前から世界を相手に、自ら道を切り開いてきた。彼の目に芝居、そして人生は、どう映ったのだろうか? 

――海外へ出るきっかけは何でしたか? 
35歳の時に、文学座の顧問を務めていた仏文学者・鈴木力衛さんから、ご連絡をいただいたことがきっかけです。当時、パリ・オデオン座の支配人だったジャン・ルイ・バローが、毎年演劇フェスティバルを開いていました。僕が渡仏した年は英国人演出家ピーター・ブルックを招き、フランス、英国、米国、日本の4カ国の役者を使った実験劇『テンペスト』を公演する予定でした。そのための日本人俳優として僕が選ばれたのです。1960年代後半の日本は海外へ行く機会もまれですから、外国へ行って芝居ができ、給料ももらえるなんて、こんなありがたい話はないと喜んでお受けしました。

――演劇フェスティバルは成功しましたか? 
私がフランスへ着いた時、パリは五月革命(学生運動から発生した反体制運動)の真っただ中でした。そのためフランスの俳優組合はストライキに突入し、オデオン座もデモ参加者が占拠しました。劇場内では作家サルトルやジャン・ジュネが、今後の世のあり方について議論するなどし、芝居どころではなくなったのです。結局、演劇フェスティバルは開かれず、何もできず日本に帰国しました。

――なぜ、また海外へ出ることになったのですか? 
1年後に、再びピーター・ブルックから「パリに世界各国の演劇人、演出家、脚本家、音楽家、美術家、俳優で構成した演劇センターを作りたいから、君も加わらないか」と手紙をもらったからです。参加者で演劇というものがまだ固定観念として固まっていない地域へ出かけ、3年間かけ即興劇などを行いながら演劇の本質を探ろうとする試みです。3年という長期に渡り日本を離れると、帰国した際に自分の居場所がなくなるのではないかという不安はありましたが、一方で3年何かに打ち込めば新たに開ける道もあるだろうと思い、彼の誘いを受けました。ピーター・ブルックとは、イランの田舎や西アフリカ、カリフォルニア、ニューヨークのブルックリンなど、世界各地で即興芝居をしました。それが今に至るまでの海外生活の始まりになるとは、当時は想像もしていませんでした。

――芝居の道へ進むきっかけは何でしたか? 
芝居は子供の頃から大好きでした。テレビもなく映画も少ししかない戦前において、娯楽の中心は常に芝居です。家が自転車メーカーを営んでいたため、母はいつも忙しく、芝居小屋へは女中に連れられ通っていました。子供は夜の公演へ行けませんから、昼間になりますが、普通は学校がありますよね。すると母は「今日は熱があるので休ませます」と担任の先生に連絡してくれました。中学になると舞台模型作りに熱中しました。保護者会で母が「うちの子は勉強もせず、舞台模型作りなどに打ち込んでいます」と言うと、先生側は「いいじゃないか、続けなさい」とおっしゃってくれました。演劇に対して大変好意的な環境でした。

――仕事として役者をすると決めた時も周囲は後押ししてくれたのですか? 
商売として役者になることには、大きな反対がありました。当時、役者というものは今と比べて社会的身分が随分低く、「大学まで出たのになぜ役者なんかになるのか」と父に叱られました。さらに僕が目指したのは新劇(歌舞伎など日本伝統のものではなく欧州流の近代演劇のこと)で、今以上にお金が儲かるジャンルではありません。一旦は「父の反対ももっともだな」と思い、幸い家業があったので、しばらくは新劇をやってみて、後は家を継ぐつもりでした。ところが26歳の時に父が亡くなり、会社も潰れてしまったんです。もう逃げ道がないですよね。仕方なしに役者を続けるはめになりました。

――芝居は自分に合っていたと思いますか? 
生きているとさまざまな場面で選択を求められます。その時にもっとも大事なのは、「自分に合っているか」ではなく「自分にとって、これをやることが重要かどうか」だと思います。もし重要だと感じたら、踏み出す勇気と、踏み出した後は自分に合うよう努力し続けることが肝要です。人生とは神様や他人が決めるものではなく、自分で決めるものです。僕は人生自体に意味はないと考えます。意味がないなら、せめて自分にとって興味ある芝居をやって、人生に意味を作り出そうと思いました。

――それでも芝居を続けていくことに迷いはありませんでしたか? 
若い頃は何でもできる気がして、とにかく社会的地位や名声を早く得たいと思いがちです。しかし年齢を重ねていくと、「自分はどれだけできるのか」ということがだんだんと分かってきます。すると結局は「その自分をどう受け入れるか」を学ぶことになります。僕の場合は芝居をやることで、(芝居は好きですが)芝居がなくても幸せに生きられることも分かりました。誰しも、今就いている仕事が、本当に自分に合っているか悩むことはあるでしょう。しかし、ありのままの自分を受け入れ幸せに進む方法を見つけられれば、どのような職業でも、その職を選んで良かったと思えるはずです。

――海外で事を成すためには何が必要だと思いますか? 
運と才能と努力ですが、そのなかで自分のオリジナリティを発見でき、表し、仕事にぶつけられる人です。オリジナリティというのは、ただ「海外で日本らしさを出す」という意味ではありません。それは親の財産で食っているようなものでしょう。僕の場合であれば、いかに笈田流のものを身に付けるか。そういう文化を超えた、自分にしか出せないものを表現することで、職業が成り立ちます。
言葉はそれほど心配いりません。それよりも根本的なコミュニケーションが必要です。もちろん言語能力が高いに越したことはないですが、相手を分かろうとし、相手に自分を理解してもらおうとする心のエクスチェンジが、もっと大切です。人間は自分の哲学、宗教、人生観が正しいと信じています。同じ日本人同士でも、それぞれの正義は違うため、異文化間なら考え方の差はなおさら広いでしょう。そこで自分という枠をこしらえてしまうと、コミュニケーションが難しくなる時もあります。ひょっとしたら、どこかに究極の真実というものはあるのかもしれません。あるかもしれませんが、自分の真実がそれであると考えずに、相手が考える真実も受け入れて、その交流から本当の真実に近いものへ到達しようとすること。これがもっとも肝心です。

――役はどのように作っていますか? 
あなた自身、自分がどういう人間なのか、きっちり説明できますか? はっきり分からないでしょう。自分のことだって知らないのに、他人のことなんてもっと理解できませんよ(笑)。結局、一生懸命に役を作ろうとしたところで、漠然としか分からないんです。ゆえに「役を作る」なんて考えません。「ここは笑った方がいいかな」「ここは怒った方がいいかな」と瞬間瞬間でやっていく。そうするとお客さんは「この人はケチな人だな」とか「優しい人だな」とイメージしてくれます。私たち自身にしても、「自分というものがある」と考えることが誤解で、今日の自分と明日の自分は違っていたりします。人間なんて頭が一瞬一瞬の出来事に、ただ反応しているだけなんです。

――笈田さんにとって演劇とは何ですか? 
演劇って大したものじゃないんです。理屈なら哲学の方がいいし、社会運動なら外へ出てデモをした方がいい。演劇から知的な何かを知るというよりも、「人間というものは美しいものだな」「摩訶不思議なものだな」「変な動物だな」といったことを、お客さんに受け取ってもらえれば、それでいいんです。劇場を出た時に、「心の洗濯ができたかな」とお客さんがふと感じる。そのためには、どうすればいいのかを常に考え、努力しています。

――今後の目標を教えてください。
アジア各国を周り、現地の人たちと一緒に1つのものを作りたいです。日本の役者や踊り手、歌い手など舞台表現者と共に、各国の人々と、それぞれ異なった短いパートを創作する。最後にそれらを一連にして、日本で公演するというプロジェクトです。その要素として、第二次大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争などの戦争体験を、現地の年寄りから聞こうと思っています。今まで様々な場所を旅して芝居をしてきました。松尾芭蕉は晩年に、苦労して東北まで旅をして『奥の細道』という傑作を作ったと言われています。それが本当か嘘かは知りませんが、僕ももうじき死ぬから、その前に苦しい旅をして結果を出したいと思います。
(加藤亨延)