今オフのFA市場で、目玉選手(?)の一人は、東京ヤクルトスワローズのマスコット、つば九郎だろう。

 1994年のプロデビューからスワローズ一筋のベテランは、18年目の今オフにFA権の行使を宣言。これまでにも、FX(外国為替証拠金取引)を扱うマネースクウェア・ジャパン九州忍者保存協会、プロレス団体のゼロワンGoogle日本法人日本相撲協会など13団体からオファーが寄せられている。

 チームがどんなに苦しい状況でも愛くるしい仕草でファンを楽しませるマスコットたち。つば九郎のほかにも、中日ドラゴンズドアラ阪神タイガーストラッキー北海道日本ハムファイターズブリスキー・ザ・ベアーなどが有名で、最近ではオリックスバファローズバファローベルが人気だ。


 そんなマスコットたちだが、わが国での先駆けは阪急ブレーブス(現在のバファローズ)のブレイビーだと言われている。

 ブレイビーは1981年、観客動員数の増加を目的に生まれた。ブレーブスは当時、創設以来、親会社が変わっていないという意味では、読売ジャイアンツ、タイガースと並ぶ名門球団だったが、人気は今ひとつ。同じ近畿圏をフランチャイズにしていることから、タイガースに人気を奪われていた。
 そこで阪急グループは一念発起。地域住民との良好な関係を目的に、ありとあらゆる施策を講じた。
 ブレイビーも、その一つ。米メジャーリーグからマスコットのVTRを取り寄せ、その仕草を研究する力の入れようだった。


 そのブレイビーとして長らくファンを楽しませたのが、故島野修氏だ。1981年から1998年までの1,175試合、1試合も休むことなく、ブレイビーを演じた。
 
 既知のとおり、故人は元プロ野球の投手だ。1968年にドラフト1位でジャイアンツに入団。1976年にブレーブスに移籍し、1978年限りで現役を引退した。通算成績は、24試合に登板し、1勝4敗、防御率は5.05だった。

 故人のように、夢半ばにしてユニフォームを脱いだ選手は多い。しかし、球団は故人に、「野球を知っていないとできない仕事だよ」と、マスコットとしての第2の人生を期待した。

 華やかなスポットライトが当たる選手から、素顔が出ない裏方へ。故人が悩んだことは想像に難くないが、やがて快諾。後日、「(ブレーブスは)家族的なんです。関西に住み慣れるにつれて、ブレーブスというチームに愛着がわいてきた。だから、ブレイビーの仕事もやってみようという気になった」と、当時の心境を語っている。

 マスコットに転身した故人には好奇の目が注がれたが、故人はマスコットとしてそれを受け入れた。「子供が好きなんです。だから、こういう仕事を続けているんでしょうね。1年ごとの契約だから、いつまで続けられるかわかりませんけど。まだ当分、こういう形で離れられないと思う」と述べている。

 ブレーブスは1989年、阪急からオリックスに譲渡され、1991年にはチーム名がブルーウェーブに改まったが、故人は新マスコットのネッピーとしても活躍。1996年には、通算1,000試合出場を達成し、イチローから祝辞を受けた。

 そんな故島野氏は、1998年でマスコットを引退。球団職員として、野球教室やコミュニティー活動などを担当し、2004年に退職した。そして、2010年5月、脳出血のため亡くなった。59歳の早すぎる別れだった。


 われわれファンが、球場などでマスコットを見て楽しむことができるのは、故島野氏の貢献が大きい。改めて、合掌。