サッカーで嫌なところを述べよと言われれば、一にPK戦、二に五輪のオーバーエイジを挙げたくなる。PK戦が性に合わない理由は、これまでにも何度か述べてきた通り。あのキッカーとGKのやりとりに、サッカー的な要素を感じないのだ。サッカーのようでサッカーではない。にもかかわらず、PK戦の結果には、実力が絡んでいるかのように見える。結果に対して少なからず必然を感じさせる。「抽選」より数段、サッカーの結果として相応しいものに見える。うっかりしていると。
 
結果至上主義者には、PK戦の敗者は文字通りの敗者に見える。勝者は文字通りの勝者に見える。それぞれは単純に勝者、敗者として記憶される。それがPK戦の結果であるという事実が、忘れ去られがちなところにアンフェアさを感じる。
 
しかし、ここで言いたいのはPK戦についてではない。いま話題のもう一つの方。五輪のオーバーエイジだ。
 
日本サッカー協会が今回、使用する方針を打ち出したことで、巷はいまその話題で盛り上がっている。4年に一度、訪れるお決まりの話題といっても良いが、もういい加減にしてくれと僕は言いたい。
 
23歳以下の大会では華がない。訴求力が弱い。名の知れた選手がオーバーエイジ枠は、IOC(国際オリンピック委員会)がFIFAにお願いする形で存続しているわけだが、それを使う、使わないがその国の事情に委ねられたり、予選では使えなかったり、一貫していないところに大きな問題がある。何かに媚びるようなこの安っぽいルールは、明らかにサッカーの敵。スポーツの王道を行く競技の品格を著しく下げる汚点に他ならない。
 
五輪の男子サッカー競技の値打ちは限りなく低い。この値打ちのない大会と日本はどう向き合うか。どう賢く付き合うか。時間の無駄にしないか。
 
オーバーエイジ。使わないと言った方が格好は良い。筋は通る。だが、そのことを評価してくれる人は誰もいない。1人でも多くの若手に経験を積ませることができるという意見にも説得力はない。五輪で3試合(プラスアルファ)戦うことを経験と言うなら、その経験はたかが知れている。その程度のことを、経験という時代はすでに終わっている。
 
一方「使う」と言っても、選択肢は無限だ。いま巷には、様々な選手の名前が飛び交っているが、オーバーエイジの選出方法に決まりはない。誰を選んでも構わないと言えば構わないわけだ。たとえば、遠藤や今野の名前をよく聞くが、なぜ彼らなのか。遠藤、今野でなければダメな理由はサッパリ分からない。
 
予選を戦ったメンバーの弱い部分に、それ以上のレベルにある選手(代表クラス)を加える。これがいまの常識的な考え方だ。
 
GK権田 DF酒井、比嘉、濱田、鈴木 MF扇原、東、山口、清武、原口 FW大津。叩き台になるのは、予選の最終戦(対バーレーン戦)を戦ったこのメンバー。ここから誰を3人控えに回し、誰を3人加えるか。となれば当然、遠藤や今野のような経験のあるベテランを要所に配したくなる。
 
従来のU―23チームをベースに考えれば、だ。だが僕は、その必要は全くないと思う。理由は前にも述べた通り。

五輪で3試合(プラスアルファ)戦うことを経験と言うなら、その経験はたかが知れている。その程度のことを、経験という時代はすでに終わっている。

経験は選手個人が自ら進んで積む時代だ。このクラスの選手なら、その気になれば、誰でも欧州のどこかでプレイできる時代だ。そちらで積む経験の方が何百倍も貴重だ。

というわけで五輪代表は、U―23チームをベースに考えるべきではないと思う。代表チームの名前で行くべきだと思う。関塚ジャパンに経験を積ませるなら、本番を間際に控えているザックジャパンの名前で臨んだ方が、よっぽど有益だと思う。