インタビュー協力=ベアトリーチェ・エレーナ 翻訳協力=高山 港


 レオナルドの胸にはいつも「日本」がある。25歳の時にプロリーグ創設から間もない日本を訪れ、鹿島アントラーズで2年の時を過ごした。そこで得た経験は、彼の人間性を形成する上で大きな意味を持つという。

 震災に見舞われた日本に向け、「気持ちをうまく説明するための言葉が思い浮かんでこないが、私にとってとても身近で、とても大切な日本を襲った悲劇が一日も早く終息することを心より願っている」という激励の言葉を残した親日派の指揮官が、長友佑都と日本について語ってくれた。

■長友への評価
「佑都は、まさに日本サッカーの現状を反映した選手と言えるんじゃないかな。学校のサッカー部に所属し、練習にひたすら汗を流す。そんな若者の典型だ。少し前まで、イタリアのクラブが日本人選手を獲得するケースの大半は、選手としての資質以外の要素が考慮されていた。選手としての評価はあくまで二次的なもので、まずは日本の市場を見込んだマーケティング面が優先された。つまり、アジアでの人気を高めようとか、もっと直接的に日本企業をスポンサーにしたいとか、そういう願望が常に存在したんだ」

「ヨーロッパに挑戦したいと願う選手を、形はどうあれチャンスがあれば利用したいと考えるのは当然だ。しかし、そうやってヨーロッパのチームにやって来ても、周囲から何らかの偏見を持たれるという問題は起こるものさ。でも、佑都のケースは違う。インテルはサッカー選手としての能力だけを評価して彼を獲得した。日本のサッカー界においては、まさに新たな時代を象徴する出来事だったと言えるんじゃないかな。チェゼーナは彼の才能を評価した。そしてインテルは、セリエAにスムーズに順応した実績を評価して獲得を決めたんだ」

■日本でのプレー経験について
「日本を選んだ理由は、ジーコに誘われたことが大きい。鹿島でプレーしていたジーコは引退して監督になる時に私を誘ってくれた。私にとってジーコは神話の登場人物みたいな人だ。だから、それがどの国であろうと、誘いを断る理由はなかった」

「それに私は好奇心が強くてね。『世界中を旅しながら、サッカー選手としてのキャリアを築く』なんて気持ちを持っていた。日本はブラジルともヨーロッパとも全く違った文化を持つ国で、そこで何年か暮らすことはとても魅力的に思えた。結果的にも、日本に行くという選択は大正解だったよ。本当に素晴らしい、充実した2年間を過ごすことができた。日本での生活は一生忘れない。当時の日本サッカーは黎明期で、レベルを問う以前に『何もかも始まったばかり』という感じだったけど、『これから自分たちの新たなサッカー文化を確立するんだ』という雰囲気の中に身を置けたのは貴重な経験だったよ。

■日本で学んだこと
「日本で学んだのは、自分たちとは異なる文化を尊重することだね。時代遅れの方法論がまかり通ってはいたけど、日本人はすごく真面目にサッカーに取り組んでいた。ファンの熱気もすごかった。私は鹿島のファンから本当に愛されたんだ。今でもはっきりと覚えているのは、日本での最後の試合で美しいゴールを決めた後、数百人のファンが私を自宅まで見送ってくれたことだ。彼らは今でも私に様々な形で愛情を示してくれる。あの熱気、情熱が日本サッカーを支えていると言えるのかもしれないね」

「そして、共同して何かに取り組むことの重要性も学んだ。日本人は規律正しく、集団で物事に取り組むのがうまい。個人では不可能な事柄に集団で打ち込み、目標を達成する。素晴らしい人々と一緒に仕事ができたことを誇りに思っているよ」

 史上最大規模の地震と津波による被害に苦しむ日本。復興のキーワードは、レオナルドの言葉にある「個人では不可能な事柄に集団で打ち込み、目標を達成する」という、日本人の“強み”なのかもしれない。

[インタビュー | ワールドサッカーキング 11.04.07(No.173掲載]

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レオナルド|日本サッカーの理解者

【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。ストリートファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING(twitterアカウントはSoccerKingJP)』の編集長に就任。