もしアインシュタインが30歳でレジュメを書いたら
もしも発明王アインシュタインが転職するとしたら・・・歴史をひもとき、レジュメを代筆

今回取り上げたのは、「アルバート・アインシュタイン」。20世紀最大の天才科学者として、その名を知らない人はいないだろう。「特殊相対性理論」「一般相対性理論」に代表される彼が打ち立てた理論の数々は、ニュートン以来の物理学の常識を覆し、宇宙や分子の構造、時間の概念さえをも塗り替えてきた。

そんなアインシュタインも、大学卒業後の就職では並々ならぬ苦労をしている。しかし、思うにまかせぬ暮らしを送りながらも、自らの研究を続け、テーマを磨き、次々に歴史に残る論文を発表していったアインシュタイン。その精神は、現状に満足できずにいる現代のエンジニアにとっても、見習うべき点が多々あるのではないだろうか。

そこで、「もしもアインシュタインが、30歳のときにチューリッヒ大学の準教授に登用されず、大学教授の職をあきらめないで転職活動を続けていたら……」と仮定して、レジュメを作ってみた。
転機を感じている方は、ぜひ自分のエンジニアキャリアと比べてみてほしい。

それでは早速、アインシュタイン30歳の「職務経歴」「自己PR」「キャリアプラン」をご覧いただきたい。


□プロフィール
1879年、ドイツ南部のウルムで生まれる。1889年、ミュンヘンのルイトポルド・ギムナジウム(州立高校)に入学。1895年、16歳でスイスのチューリッヒ連邦工科大学の入学試験を受験するが、失敗。スイス・アーラウのギムナジウムに編入する。ギムナジウム卒業によって大学入学資格を取得、1896年、晴れてチューリッヒ連邦工科大学へ入学する。

□職務経歴

[POINT]独学で高度な物理学・数学を習得し、科学史に残る数々の論文発表をアピールするはず

1900年(21歳) チューリッヒ連邦工科大学を卒業
卒業後
・チューリッヒ連邦天文台の計算助手
・ヴィンテルトールの職業技術学校の臨時教師
・シャフハンゼンの家庭教師

1901年(22歳) 最初の論文を発表
学術誌『物理学年報』に、最初の論文「毛管現象からの帰結」を発表。

1902年(23歳) スイス連邦特許局に勤務
ベルンにあるスイス連邦特許局に見習技官として採用。3級技術専門職。
モーリス・ソロビーヌ、コンラッド・ハビヒトらと「アカデミー・オリンピア」を結成。物理学だけでなく、哲学や文学にまで及ぶ広範な議論を重ねる。

1904年(25歳) ベルン特許局の正職員に昇格
ベルン特許局に正式採用となる。
特許申請があった案件について、その是非を審査する業務を担当する。
昼間は特許局での審査業務を遂行し、業務終了後は、「アカデミー・オリンピア」での議論や自宅での研究・思考実験を通じて、広範な物理学の知識を深めた。
なお、1902年から本年までに、主に熱力学に関する論文4本を発表する。

1905年(26歳) 「特殊相対性理論」を発表
ベルン特許局での職務の傍ら、以下の6本の論文をこの年一気に発表。
・「光の発生と変換に関するある発見法的な見方について」
それまで光は波だとされている定説に対し、粒子としての性質もあるとする光量子仮説を打ち立てた内容。
・「分子の大きさの新しい決定法」
液体溶液の粘度に着目し、その性質に基づいて、分子の大きさを算定する方程式を導き出す方法。
・「静止流体中に浮遊する粒子に対して熱の分子運動から要求される運動」
液体に浮いた粒子の振動運動が、分子の熱運動(ブラウン運動)によるものであることを指摘し、分子が実在することを証明。
・「運動する物体の電気力学について」
不変なのは光の速度だけで、時間も空間も観測者との相対的関係において変化することを理論化。それまでの時間と空間の概念を覆す、特殊相対性理論に関する最初の論文。
・「物体の慣性はその物体のエネルギー量に依存するか」
特殊相対性理論の2番目の論文。どんな種類の質量もエネルギーをもつ(その逆も成り立つ)ことを証明し、E=mc2の関係式を発表。
・「ブラウン運動の理論について」
分子の熱運動に関する論文を一般化し、回転の熱運動にまで拡大。「拡散係数」と呼ばれる関係式を完成。
 :
 :
この記事の続きは[livedoor キャリア]で


■関連リンク
livedoor キャリア
もしも発明王エジソンが転職するとしたら・・
【面接対策】面接になると緊張してしゃべれない人は必見!
【面接必勝法】情報を活かすことができるかが合否のポイント
【女の転職】20代で年収400万以上が狙える「ちょっと良い仕事」
年収格差1000万!?[33歳の年収格差実態レポート]