時代に翻弄され最後には廃止された薄幸な鉄道路線「武蔵野競技場線」が、東京都内に眠っています。実働は約8か月間だけ。なぜ敷設され、なぜ短命に終わったのでしょうか。

三鷹駅から北へひと駅だけの支線

 東京の新宿から15分ほどの所に、時代に翻弄された、不運な鉄道路線が眠っていることをご存じでしょうか。


三鷹駅西側の三鷹跨線橋から西側(武蔵境方面)を望む。保線車両の基地がある所が、かつての武蔵野競技場線跡(2018年12月、栗原 景撮影)。

 それは、国鉄(現・JR東日本)中央本線の三鷹駅(東京都三鷹市)から分岐していた、通称「武蔵野競技場線」。中央本線の支線で、三鷹駅から北へわずかひと駅、全長3.2kmの路線でした。開業は、1951(昭和26)年4月14日。終点、武蔵野競技場前駅の横には、プロ野球球団「国鉄スワローズ」(現・東京ヤクルトスワローズ)の主催試合も開催された「東京グリーンパーク球場」(「武蔵野グリーンパーク野球場」「東京スタディアム」とも)があり、武蔵野競技場線はこの球場へのアクセス鉄道として建設されました。

 しかし、この路線を電車が走ったのはわずか1年足らず。翌1952(昭和27)年には早くも休止状態となり、1959(昭和34)年11月に廃止されてしまいました。実働約8か月、開業から廃止まで8年7か月という、旅客鉄道としては異例の短命路線だったのです。

 武蔵野競技場線は、このように「幻」のような鉄道路線でしたが、現地には、いまも当時の遺構がいくつか存在してします。

遺構の上に架けられた「ぎんなん橋」

 JR三鷹駅の北口から西へ、線路沿いに700mほど歩くと、北に向かって緩くカーブを描く堀合(ほりあわい)児童公園と、その奥から始まる遊歩道があります。これが、武蔵野競技場線の跡。遊歩道に鉄道の面影はほとんどありませんが、民家との境目付近を注意深く観察すると、「工」と書かれた石の杭が残っています。「工」は明治時代に鉄道を含む産業開発を担った工部省のマークで、国鉄と民有地の敷地境界だったことを表しています。


堀合遊歩道に残る国鉄の敷地境界票。かつてはたくさん見られたが、いまはわずか数基を残すのみ(2018年12月、栗原 景撮影)。

玉川上水の橋梁跡に架けられた「ぎんなん橋」。すぐ横に新武蔵境通りの歩道がある。埋め込まれたレールは当時のものではない(2018年12月、栗原 景撮影)。

ぎんなん橋の北側には、橋台跡の由来を示す説明板がある(2018年12月、栗原 景撮影)。

 公園と遊歩道を進むと、左から新武蔵境通りが合流するように近付き、「いちょう橋」で玉川上水を渡ります。「いちょう橋」には歩道もありますが、その隣にもうひとつ、「ぎんなん橋」と呼ばれる歩行者専用橋があります。線路跡の上に架けられた橋で、鉄道時代を偲(しの)んでレールが埋め込まれています。

 ぎんなん橋が架けられたのは、ごく最近、2012(平成24)年のこと。橋の両側には、鉄道時代の橋台が残り、橋の下をのぞき込むとかつての遺構をわずかに見ることができます。2011(平成23)年まで、ここには橋台がほぼ完全な形で残っていました。しかし、新武蔵境通りを建設した際、橋台の上に新しい歩道橋を架けたのです。傍らには案内板も設置されましたが、肝心の遺構はほとんど見えません。歩道は隣のいちょう橋にもあるのですから、貴重な遺構はできる限りそのままの姿で残してくれれば良かったのですが……。

 さて、その案内板には、「中島飛行機 武蔵製作所 工場引込線 橋台跡」と書かれています。この鉄道は、球場アクセス路線となる以前は工場の専用引込線だったのです。中島飛行機は、一式戦闘機「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)などを生産した軍需企業でした。

時代に翻弄された引込線

 ぎんなん橋から玉川上水に沿って西へ100mほど歩くと、もうひとつ橋台の跡が現れます。これは、中央本線の武蔵境駅(東京都武蔵野市)から境浄水場まで延びていた引込線の跡。実は、武蔵野競技場線のそもそものルーツは、この引込線にあります。


1956年、東京グリーンパーク球場が解体される直前ごろの写真。武蔵野競技場線と境浄水場への引込線が見える(国土地理院の航空写真を加工)。

2006年当時の武蔵野競技場線橋台跡。これは南側の橋台で、その構造をよく観察できた(2006年6月、栗原 景撮影)。

2010年、ぎんなん橋の架設工事が始まったころの橋台跡。遺構は一部が道路を支障し、南側の遺構は向かって右側の一部が削られてしまった(2010年2月、栗原 景撮影)。

 境浄水場が完成したのは、1924(大正13)年のこと。同じころ、水の濾過(ろか)に使う砂利の運搬用に、武蔵境駅からの引込線が建設されました。しかし、太平洋戦争が始まると、引込線は運行を休止。1943(昭和18)年ごろには、境浄水場の北東にあった中島飛行機武蔵製作所への専用線に造り変えられました。ところがこの専用線も、工場が空襲で破壊されると用途を失います。

 戦後、中島飛行機跡地は進駐軍に接収されましたが、まもなく東側の用地が返還されて、東京グリーンパーク球場が建設されました。プロ野球の公式戦も開催できる5万人収容の本格的な野球場です。当時、神宮球場(東京都新宿区)が進駐軍に接収されていたため、東京でプロ野球の公式戦を開催できる野球場は、後楽園球場(同・文京区)しかありませんでした。

 球場建設と同時に、1950(昭和25)年に廃止された中島飛行機の引込線跡を活用して、三鷹駅から球場アクセス鉄道が建設されました。これが武蔵野競技場線です。試合開催日には、ボールをデザインしたヘッドマークを付けた直通電車が東京駅から運行されました。同じころ、境浄水場の引込線も復活しています。

 平和なレジャー路線として新たなスタートを切った武蔵野競技場線でしたが、当時の感覚では、三鷹や武蔵野は都心から遠すぎました。開場翌年の1952(昭和27)年には神宮球場が進駐軍から返還され、さらに川崎球場(川崎市川崎区)も開場。首都圏の野球場不足は解消し、東京グリーンパーク球場は早くも存在意義を失います。砂ぼこりが多いなど評判が良くなかったこともあり、結局、初年度にプロ野球や東京六大学野球など65試合を開催しただけで球場は事実上閉鎖してしまいました。そして、武蔵野競技場線も実働8か月で再び休止状態に追い込まれたのです。その後、路線が復活することはなく、1959(昭和34)年に正式に廃止となりました。一方、境浄水場の引込線も、1971(昭和46)年ごろに地図から姿を消します。

 運行休止と復活を繰り返した武蔵野競技場線と境浄水場の引込線。廃止後は長い間放置されていましたが、1984(昭和59)年に遊歩道と公園として整備されました。このとき、ほとんどの遺構は失われましたが、玉川上水の橋台といくつかの敷地境界票だけが残ったのです。

まるで現役の駅前のようなにぎわいの駅跡周辺

 話を玉川上水に戻しましょう。現在は橋台が残るだけの境浄水場の引込線跡ですが、以前は「みどり橋」と呼ばれる歩道橋がありました。遊歩道が整備された時に鉄道橋を再活用したもので、筆者(栗原 景:フォトライター)が1991(平成3)年に訪れた際は自由に渡ることができました。しかし当時すでに木製の手すりなどは腐食が進んでおり、十分に管理されていないなと感じたものです。その後、1997(平成9)年ごろには老朽化から立入禁止となり、やがて撤去されました。


2000年ごろまで「みどり橋」が架かっていた境浄水場引込線も、いまは橋台跡が残るのみ(2018年12月、栗原 景撮影)。

玉川上水を斜めに渡っていたみどり橋の延長線上に境浄水場の南門がある。道路に対して斜めに架かっているのが鉄道時代の名残(2018年12月、栗原 景撮影)。

グリーンパーク遊歩道には戦争関連遺構の案内板が充実している。「グリーンパーク」とは、中島飛行機武蔵製作所跡地を接収した米軍が付けた名称だ(2018年12月、栗原 景撮影)。

 ぎんなん橋を渡った所からは武蔵野市に入り、武蔵野競技場線跡は「グリーンパーク遊歩道」と名を変えて武蔵野競技場前駅跡まで続きます。鉄道の遺構は案内板以外ほとんど見当たりません。以前はたくさんあった敷地境界票も、この25年でずいぶん減りました。沿線にはまだまだ田畑が残り、ロッカーを使った農作物の無人販売所もあります。

 大きく右にカーブし道路に合流すると、武蔵野中央公園。ここが、かつての中島飛行機武蔵製作所の跡地で、戦後は70年代まで米軍住宅がありました。道路の左側に建つ分譲マンションが線路跡で、その先、武蔵野市立高齢者総合センターがある交差点が、終点、武蔵野競技場前駅のあった場所です。戦前は、中島飛行機武蔵製作所の正門があった場所でもあります。

 1956(昭和31)年に東京グリーンパーク球場が閉鎖された後、その跡地には団地ができました。1980年代には米軍住宅が返還されて公園となり、武蔵野市役所も移転してきます。そのため、武蔵野競技場前駅の跡地周辺にはスーパーや飲食店が多数集まり、三鷹駅から2km近く離れているのに、まるで駅前通りのような雰囲気です。


遊歩道周辺には野菜の無人販売所も。新里芋200円、ゆず100円など格安(2018年12月、栗原 景撮影)。

左側の、修繕工事中のマンションが線路跡。路線廃止後も土地は国鉄が所有し、90年代まではここにはJRの社宅があった(2018年12月、栗原 景撮影)。

スーパーや飲食店が並び駅前のような雰囲気の武蔵野競技場前駅跡周辺。奥の交差点が、駅があった場所。線路は左の方へ延びていた(2018年12月、栗原 景撮影)。

 もし、東京グリーンパーク球場がもう少し都民に定着していたら、あるいはいまも武蔵野競技場線は通勤路線として活用されていたかもしれません。戦前の引込線時代から休止と復活を繰り返した武蔵野競技場線は、あまりにも不運な鉄道でした。

 冬は玉川上水の遺構が樹木に隠れることもなく、わずかな遺構を観察するには最適な季節です。暖かくして、都内に残る薄幸の鉄路に思いを馳(は)せる散歩を楽しんでみてはいかがですか。