クラレ 第2代社長 大原總一郎●1909〜68。創業者・大原孫三郎の長男。39年社長。50年ビニロンの工業化に成功する。

写真拡大

名演説とは、深い思想を、限られた言葉に結晶化させたものだ。そして純度の高いものほど、歴史を超えて、受け継がれていく。彼らの魔法の一端を、その読書歴から探ってみよう。

大原總一郎は、倉敷絹織(現・クラレ)などの経営者として、繊維産業に大きな足跡を残す一方で、経済団体で要職を務めることも多かった。1960年には関西経済同友会の代表幹事に就任している。同友会で大原は、日本経済と経営者のあり方を研究する委員会を設け、翌年にはこのテーマで何回か講演を行った。

そのうち京都で行った「経営者の人間像について」と題する講演では、企業の社会的責任とは「何がしか新しい国民経済的な役割をその中にもちながら発展するということでなければならない」と語った。そのうえで、企業の利潤とは、社会的・国民経済的貢献への対価としてでなくてはならず、土地やモノの買い占めなどで利潤をあげることはけっして社会的貢献にはならないと批判した。

こうした大原の企業や経営者の社会的責任に対する考えは、明治〜昭和初期の実業家・渋沢栄一が『論語と算盤』(角川ソフィア文庫など)で説いたこととも重なる。たとえば同書の「仁義と富貴」という章には、「真の利殖は仁義道徳にもとづかなければ、けっして長続きしない」という意味のことが書かれている。これは、孔子の『論語』を熟読したうえで導き出された考えであった。

渋沢はまた、「手にする富が増えれば増えるほど社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない」とも書いている。大原はそうした考えの何よりの実践者であった。そこには父・孫三郎の影響も大きい。

孫三郎は青年時代、地元・倉敷で孤児の救援活動を行う石井十次という人物に感銘を受け、自らも社会貢献のため活動を始めた。大原はその父のつくった石井記念愛染園・大原美術館などあまたの施設を引き継ぎ、発展させたのである。それらは大原の死後も、地域社会に根ざしたものとして継承されている。

企業による社会貢献や文化活動は、経済状況に左右されやすいものだ。自社の宣伝や経営者の道楽といった性格が強いと、不況になったり経営が傾いたりすれば撤退せざるをえない。その点、大原は肝心の経営で、ときにリスクを冒しつつも成功を収めている。まさに渋沢のいう『論語と算盤』=道徳と経済活動を両立させていたからこそ、講演での主張にも説得力があるのだ。

ソニー創業者の1人である盛田昭夫は、国際的な経営者として世界を飛び回り、英語でスピーチする機会も多かった。

彼の英語はけっして流暢ではないが、相手に伝える工夫が随所に凝らされていた。「“S”(Science)は“T”(Technology)ではなく、“T”は“I”(Innovation)ではない」とは、1992年に、イギリスで名誉大英帝国勲章を授与されたときのスピーチでの“つかみ”の言葉だが、これは一体どういう意味なのか。

この言葉の前半の意味を、盛田は「基礎科学の研究からは、未来へのヒントは得られるが、産業のエンジンとしてのテクノロジーは生まれない。そしてテクノロジーをつくり出すのは、科学者ではなくエンジニアだ」と説明した。

ただ、盛田は「テクノロジーだけではイノベーションにならない」とも言っている。企業の観点から見れば、テクノロジーの創造性はイノベーションの1つの要素にすぎない。さらに商品企画とマーケティングの創造性が必要だというのだ。極端な例でいえば、ウォークマンは、画期的な技術は何一つ使われていないにもかかわらず、商品企画とマーケティングにもとづいて大成功を収めている。

この考え方は、イノベーションの提唱者であるオーストリア生まれのアメリカの経済学者、J・A・シュンペーターの考えと重なる。シュンペーターは企業家を定義づける特徴として、「単に新しいことを行ったり、すでに行われてきたことを新たな方法で行うということ」をあげ、これを革新(イノベーション)と呼んだ(『企業家とは何か』東洋経済新報社)。

さらに彼は、企業家と発明家を明確に区別している。「発明家はアイディアを生み出し、企業家は『事を行う』。この事というのは、必ずしも科学的に新しい何かを実現することである必要はない。また、アイディアや科学的な原理それ自体は、経済的な実業活動のために重要ではない」。この点は、盛田の考えと特に似ている。

ソニーには、もう1人の創業者である井深大をはじめ優秀な技術者が大勢いた。彼らのつくる製品がいかに価値を持ち、どんなライフスタイルを提供してくれるのか。それをわかりやすい言葉で伝え、新たな市場を創出すること。それこそが企業家としての盛田が果たした最大の役割であった。

本田技研工業の創業者である本田宗一郎は、スピーチが面白いことで定評があった。

柳生という家の令嬢の結婚式では、「柳生家のことなら、何でもわたしにお訊ね下さい。わたしは昔から物凄く勉強してきたんだから。それも、先生に隠れてまで、立川文庫の豆本で勉強してきたから、絶対まちがいありません」と話して、笑いを誘った。なお立川文庫とは、明治から大正にかけて出版された少年向けの講談本である。

本田の話術は、社員を鼓舞するのにもおおいに発揮された。ホンダ創立からまもなく、浜松から東京に進出した1950年頃には、ミカン箱の上に立って「日本一になるなどと思うな。世界一になるんだ」と絶叫した。社員の給料も満足に出せていなかったが、本田の目はすでに世界に向けられていたのだ。54年には、世界中のオートバイ関係者が技術を競い合うマン島TTレースに出場し優勝することを目標に掲げる。会社が経営不振に陥っていた時期にあって、何とか社員を奮い立たせようという宣言だった。

本田はまた「水泳の古橋(廣之進)選手のように、日本人の心に希望を与えたい」とも語った。『古橋廣之進 力泳三十年』(日本図書センター)に書かれているように、古橋は戦後の劣悪な食糧事情や練習環境のなかで猛練習を重ね、世界記録を次々と出した。本田は、古橋の持つ体力の代わりに技術力をもって、欧米諸国に打ち勝とうと考えたのだ。

5年後の1959年にようやく初出場したマン島レースでは、125ccレースにおいて6位入賞を果たした。61年には125ccと250ccと念願の完全優勝を達成、ついにホンダの名は世界に轟いたのである。

本田はあまり本を読まなかったという。それでも彼の話には人の心を捉える力があった。それというのも、本から引用した言葉ではなく、粗野ではあるが、柔軟な発想や体で得た体験にもとづく生の言葉を用いていたからだろう。

アップル創業者のスティーブ・ジョブズは、2005年に母校スタンフォード大学の卒業式にて行ったスピーチの終わりがけ、「ハングリーであれ。愚かであれ」と学生たちに訴えかけた。この言葉は、スピーチのなかで明かされているように、ジョブズが青年時代に愛読した「ホール・アース・カタログ」という雑誌の最終号に掲げられていたものだ。何事も恐れず、常識にとらわれない生き方をしたジョブズらしい言葉のチョイスだといえる。

ジョブズはこのスピーチで、前年に末期がんの告知を受けたことを語っている。それを踏まえての「死は生命にとって唯一にして最高の発明」「あなた方の時間は限られている。誰かほかの人の人生を生きて無駄にしてはいけない」といった言葉も印象深い。

こうしたジョブズの死生観は、彼が青年時代より影響を受けてきた禅の思想にもとづくものともとれる。たとえば禅の一派・曹洞宗の開祖である道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「生死」の巻には、「生きるときはただ生き、死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない」という意味の文章がある。

道元は、いま目の前にある存在(これを「現成(げんじょう)」と呼ぶ)のすべてが悟りの実相だと説いた。『正法眼蔵』の「現成公案」の巻には、薪と灰の関係を例に、こんな話が出てくる。

「薪(たきぎ)は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時のあり方にすぎないのである」

ジョブズもまさに、病気を現成としてそのまま受け取り、残された時間を大切に生きた。「死は生命にとって唯一にして最高の発明」という言葉は、そうした意志の表れであった。

(文=近藤正高 写真=時事通信フォト、クラレ(大原總一郎氏))