『実践版 孫子の兵法』鈴木博毅著(プレジデント社)

■部下がやらざるをえない環境を作る

意外なことかもしれませんが、兵法書の『孫子』は戦略戦術だけでなく、組織論にページを大きく割いています。組織をどうまとめるべきか、兵士の実力を200%引き出すためには、リーダーは何をすべきかを書いているのです。第十一「九地編」で孫子は、どんな軍隊の兵士でも、戦闘が怖いのは当たり前であると指摘しています。

「彼らとて実は、財産は欲しいし、声明は惜しいのだ、出陣の命令が下ったときは、死を覚悟して、涙が頬をつたわり、襟をぬらしたはずである」
「そのかれらが、いざ戦いとなったとき、専諸や曹けい顔負けの働きをするのは、絶体絶命の窮地に立たされるからにほかならない」
(引用『孫子・呉子』守屋洋・守屋淳 プレジデント社より)

現代ビジネスでは、戦場に出陣して死と隣り合わせ、という体験をすることはありませんが、別の意味で孫子の指摘は当たっています。ほとんどのビジネスマンは、自分の本来の能力を100%発揮して必死になることはなく、仕事に熱中するよりむしろ手を抜く方法を考えることが多いからです。

勿論、会社が期待する成果を出していれば問題はありません。しかし孫子は、平凡な兵士も英雄のような獅子奮迅の活躍をする条件を整えることを目指すべきだと言っています。

逆に言えば、あまり真剣に仕事に打ち込んでいない部下の姿にイライラしているのは、実は会社や上司が職場環境を正しく整えていないことが理由かもしれないのです。

孫子は「窮地に立たせる」と書いていますが、社員を追い込むのではありません。社員がやらざるを得ない状況に置き、仕事に真剣に向き合える場を創ることがポイントです。

■職場のチームを勢いに乗せるリーダーたれ

また孫子は、職場のチームを勢いに乗せるリーダーになることを勧めています。勢いのある職場に入れば、大抵の人はその場の活気に流されて元気になり、自ら積極的に動き出すことになるのです。個人の奮起に期待するより、チーム自体を勢いのあるものにするリーダーの指導こそが大切なのです。

「戦上手は、なによりまず勢いに乗ることを重視し、一人ひとりの働きに過度の期待をかけない(中略)。勢いに乗れば、兵士は、坂道を転がる丸太や石のように、思いがけない力を発揮する」

 よく言われることですが、動くことで成果が出る仕組みを作り上げることができれば、新人社員でも仕事が面白くなるものです。最初は仕組みで成果が出るのだとしても、自らの行動に対して自信を深めていくプラスの経験ができるからです。

そのためリーダーは「勝てる戦場」に部下を連れていく必要があります。この連載を通じて、孫子がいかに戦場を慎重に選んでいるかを解説してきましたが、戦うべき戦場を巧みに選び、兵士が戦果を挙げることに自信を深めるようにできるリーダーは、自軍に勢いを生み出し、それに部下を巻き込んで勝利を重ねることができるのです。

さらに孫子は組織を効果的に率いる3つの要素を提示しています。

(1)乱を治に変える「統率力」
(2)怯を勇に変える「勢い」
(3)弱を強に変える「態勢」

この3つはある種、舞台装置のようなものでその上に乗ることで、平凡な兵士も勇者のように戦う者に成長していくことになるのです。上司が部下を「あいつは使えない」と判断するとき、実は上司である自分自身が正しく職場の環境を整備していないことが原因かもしれないのです。

「統率力」とは、万一の場合や問題が発生した時の対処法を予め決定し、組織内に行動様式として浸透させておくことです。これにより「どうしていいかわからない!」という混乱を事前に避け、問題を粛々と解決することが可能になるのです。

「勢い」とは小さな成功を体験させることで自信を生み出し、自分にはできる、次も乗り越えることができるという信念を育んでいくことです。小さな成功と勝利を、ステップを踏んで体験させていくのです。

「態勢」とは、経験を積むことで成長を促す仕事を任せることです。会社側、上司が勝てる戦場を選び出し、進むべき場所を明示しておく。勝てる体制を作り上げておくことが、弱兵を強兵に変えていくきっかけとなるのです。

■常勝軍団をつくりあげる3つのポイント

このように見ると、孫子は個人の才能だけに依存するのではなく、上司や組織が勝てる環境を作り上げることで、平凡な兵士を勇敢な兵士に自然に育て上げることが可能になることを指摘しています。ビジネスにおいても入社した人材が自然に育つ環境を作り上げることが、個人を叱責したり怒鳴り散らしたりするより、はるかに効果が高いのです。

個人に才能を求めすぎると、上司や企業は優れた環境を作り上げることを怠りがちになります。優秀な人の採用ばかりに注目している会社も、環境が勢いを創り出すことを忘れがちになります。孫子は、戦果を個人の適性だけに求めてしまうのではなく、指導者の環境整備の力に見出しているのです。

【常勝する軍団の3つのポイント】
・成果を上げることに必死にさせる
・仕事に熱中させること
・熱中し、必死に戦うチームをチャンスに殺到させる

もう一つ、孫子の組織論で忘れてはいけない点は「下に丸投げで成果を上げる」という発想とは180度違うことです。君主、将軍を含めたマネジメント側は、部下が成長し勝利できる戦場を見極め、仕事の成果に必死、夢中になる環境の整備という重要な役割を担っています。そのため、正しい仕事の与え方こそが部下の才能と努力を200%引き出す基本となっていることは、部下が1人でもいる上司は心に留めておく必要があるでしょう。

(鈴木博毅(MPS Consulting代表)=文)