平野啓一郎 異例のデビューの裏側

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 出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』!
 第63回の今回は、6月に発売された新刊『透明な迷宮』(新潮社/刊)が好評の、平野啓一郎さんが登場してくださいました。
 ここ数年、『ドーン』、『空白を満たしなさい』など、長編の刊行が続いた平野さんですが、『透明な迷宮』は短編集。ある男女に起こった悲劇を描いた表題作に加えて、山陰地方の村で起こった不思議な出来事の顛末が語られる「消えた蜜蜂」、事故によって時間感覚が狂ってしまった男を描いた「Re:依田氏からの依頼」など、思わず日常を忘れて読みふけってしまう物語が連なっています。
 今回は、この作品集の構想と執筆について、そして異色のデビュー歴について、平野さんにたっぷりとうかがいました。注目の最終回です。

■異例の「投稿デビュー」 そのいきさつとは
―平野さんといえば、非常に洗練された文体が知られています。この文体はどのようにしてできあがっていったのでしょうか?


平野:これはなかなか難しい問題ですが、基本的にはとにかくたくさんの本を読んできたというのがあります。そのうえで、自分の性に合う文体の作家のものは集中的に読みました。
書くことについては、たとえば「ここまではいいけど、これ以上書くと安っぽくなってしまうかな?」というような、一文一文のジャッジは本当に微妙なところで、センスによるところも大きいと思います。初稿で書いた内容を「ここまで書くとちょっと」と思って少しだけ引っ込めたり削ったりといった調整を僕もずっとやってきています。
それと、日本語は特に助詞と助動詞の使い方について、英語やフランス語よりも感覚に任される部分が大きいので、名詞や動詞のボキャブラリーの選択と同じくらい、助詞と助動詞の選択も大事だと思っています。もし、読者の方が僕の文体を洗練されていると思ってくださったのなら、そういった部分がうまくできていたのかもしれません。

―かなり若くしてデビューされた平野さんですが、作家になろうと思ったのはいつ頃のことなのでしょうか。

平野:作家になろうと思ったのは、大学生になってからです。高校生の頃から本は好きでしたし、小説を書いたりもしていたのですが、本当に作家になれるとは思っていませんでした。それは能力的にもそうですし、どうすればなれるかわからなかったんです。だから、当時は漠然と憧れていただけでした。
大学生になってから、真剣に作家になりたいと考え始めたのですが、僕は大学が京都だったんです。東京にいれば、たとえば友達の家族に出版社の人がいるとか、大学の先生が文芸評論家だとか、そういう接点がありそうなのですが、京都にはそういうのが全くなくて、あいかわらず作家になるにはどうすればいいのかわかりませんでした。

―新人賞ではなく投稿でのデビューというのもそういった事情が関係していたのでしょうか。

平野:当時の僕は、ミルチャ・エリアーデやジョルジュ・バタイユにすごく影響されていて、テキストというものに対して、一種の「聖性体験」の場というか、宗教理論と小説理論を重ね合わせたイメージを持っていました。それと同時に、舞城王太郎さんみたいな覆面作家としてやっていきたいという思いもあって、小説を書くうえでのコンセプトとして「どこからともなくあるテキストが出現して、それを読んだ人が日常を忘れるような強烈な体験をする」というのがいいなと思っていたんです。
大学生になると、新人賞を受賞して作家としてデビューするという方法は知っていたのですが、今お話した自分のコンセプトにはちょっとそぐわないなというのがありました。だから、当時の「新潮」の編集長に原稿を読んでもらえるよう手紙を書いたんです。
ただ、それでうまくデビューできたものの、「覆面作家」という夢は早々に破れてしまいまして(笑)。

―やはり、顔は出していたほうが何かと都合がいいのでしょうか。

平野:小説家の世界に入ってみて、やっぱり無理だと思ったんです。舞城さんのように覆面作家を貫いている方もいますが、自分のコンセプトに即していえば、現実としてある人間が書いていることがわかりきっているのに、その部分を隠して匿名性を保ち続けることにどれだけ意味があるのかなと疑問を持ち始めてしまった。
それと、僕はおしゃべりですからね(笑)。こうしてインタビューを受けたりしながら、顔を出して作家活動をしている方が、結局は性に合っている気がします。

―平野さんが人生に影響を受けた本がありましたら、3冊ほどご紹介いただければと思います。

平野:一冊は、三島由紀夫の『金閣寺』で、この作品を通して僕は小説というものと出会ったといいますか、それまでにも小説を読んではいたのですが、それらとはまったく違う体験でした。
それから、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記(ふうてんろうじんにっき)』が二冊目ですね。少し前に文芸誌の「新潮」が、この作品を谷崎本人が朗読しているCD音源を出したのですが、その朗読がすごくベタッとした朗読で、病院に行った話も、首を牽引した話も、息子の嫁の足を舐めた話も、全部同じトーンで、淡々と抑揚をつけずに読んでいる。
初期の谷崎って、「変態性」をいかにも変態らしく表現するというか、「自分はこんなに人と違う」というように、ある意味で特権的に書いていたところがありました。でも、中期以降は、変態的なことを「それも人間の姿じゃないか」というように、普通のこととして書いていて、それが谷崎が大作家になっていったきっかけではないかという気がしたんです。
今回の『透明な迷宮』に入っている「火色の琥珀」という作品には、人とは違った性癖を持った男が出てくるのですが、その性癖についてできるだけ普通のことのように書いたのは、『瘋癲老人日記』を、朗読を聴きつつ読み返したことがきっかけだったと思います。

―三冊目はいかがですか?

平野:最後はエリアーデの『妖精たちの夜』です。
実は、エリアーデ自体が僕の人生を変えたところがあって、僕が大学に入った頃、まだポストモダニズムが流行っていて、みんな現代思想の本ばかり読んでいたんです。もちろん、僕も現代思想に影響を受けた面はたくさんあるのですが、こと「文学を読む」ということに関しては、現代思想の方面からのアプローチは好きではありませんでした。結局、思想の材料として文学を使っているということであって、それを経由して文学を読んでも面白くなかった。
それと、現代思想の本をいくら読んでも、小説を書ける気がしなかったんですよ。実際に周りは「小説なんて書けるわけがない」とか、「もう文学は終わった」とか言う人ばかりでしたし。
そういったことにうんざりしていた頃、何の気なしに読み始めたエリアーデの論文集がすごく面白くて、そこから文化人類学の方に興味を持つようになりました。そうなると、神話や物語に触れるようになるのですが、そういうものってイマジネーションの宝庫なんです。フーコーの本を読んでも小説を書ける気がしませんでしたが、エリアーデの本は一冊読み終えるまでに三つも四つも話を思いつく。こういう本を読んでいけば、小説が書けるかもしれないなと思えました。
『妖精たちの夜』は、小説家としてのエリアーデの最高傑作だと思っています。本人は「歴史のテロ」と言っているのですが、歴史というのは個人の生活にある種の暴力を振るいます。その暴力に個人はどのように抵抗するかというのを小説で体現したような作品です。

―最後になりますが、読者の方々にメッセージをお願いできればと思います。

平野:しばらく長い本ばかり書いていましたが、これは短いですし内容豊富です。
愛を求めて孤独にさまよう人たちの話なので、共感してもらえる部分はいろいろとあるのではないかと思います。難しい話ではないので、気楽に楽しんでいただけたらありがたいですね。
(新刊JP編集部)