『徘徊タクシー』坂口恭平さんインタビュー(1)
出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』!
第62回は、『徘徊タクシー』(新潮社/刊)を刊行した坂口恭平さんです。
『徘徊タクシー』は、これまで坂口さんが書いてきた『TOKYO 0円ハウス 0円生活』『独立国家のつくりかた』『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』など、フィールドワークや実際の体験・活動に基づいた本とはまた違った、「フィクション」という手法で物語が描かれています。
徘徊老人を乗せて時空を旅するタクシー会社「徘徊タクシー」。この物語を通して、坂口さんが描こうとしたこととは一体なんだったのでしょうか?
(新刊JP編集部/金井元貴)
前編: “日々の粒”とフィクションを書くこと
― 坂口さんがこれまで執筆されてきた本、例えば『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』『独立国家のつくりかた』などとは違い、この『徘徊タクシー』は小説という形で書かれています。坂口さんが小説を選択したというのはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
坂口恭平さん:以前からフィクションを書くという気配はあって、ノンフィクションを書いていても、どこかでフィクション的な要素が入っていたんです。例えば『TOKYO 0円ハウス 0円生活』に出てくる鈴木さんと川沿いで出会った話もどこか寓話的に思えたし、すごく物語性を感じていた。また、『独立国家のつくりかた』という本で僕は“新政府”を立ち上げたわけですけど、本当にそんなことをしたら僕は捕まってしまうわけですね。だから、“新政府”は物語であるということを前提に読んでもらわないと成り立たないんです。
― 現実のことを書いているとはいえ、どこかでフィクション的な要素が含まれている。
坂口:僕は現実で出会う人間に対して、その人が持っている物語性をすごく感じるし、その物語性が迫真性を持つときがあって、そっちの方へと引きずられていくこともあります。人はそれを妄想と呼ぶのですが、僕の中では妄想と思えないときがある。それは僕が躁うつ病だからというのも一つあるのでしょうけど、じゃあ、そのことを少しずつ書いていけばいいのかなと思っていたんですね。
― 『徘徊タクシー』も舞台は現実の日常に根ざしつつ、妄想が一気に広がるようなそんな展開を見せる小説です。
坂口:『徘徊タクシー』については、嫁さんに一度「こういう会社をやりたい!」と企画書をあげているんです。嫁さんは「はい、分かりました」と言いましたが、僕らの間には、妄想だけして実際にはしないという約束事があるんです。そうしないと、北杜夫先生の轍を踏んでしまうことになるので…(笑)。
その企画書は寝かせていたのですが、『ユマニチュード入門』という認知症の新しい介護のあり方を提唱した本の共著者であり、僕の小中高の先輩でもある本田美和子さんとお話する機会があって、「徘徊タクシー」について賛同してくれたんですね。
― 「ユマニチュード」は認知症の高齢者の徘徊などといった周辺症状が改善するというケア方法として話題ですね。認知症の老人たちの「徘徊」を捉え直す『徘徊タクシー』ともつながります。
坂口:そこで「徘徊タクシー」をやろうと思って嫁さんに電話をしたら、「小説を書いたらいいんじゃないの」という話をされて。ちょうど原稿用紙40枚ほどの短編小説を書いていたところだったし、高校時代、新潮文庫のさ行の棚に、自分の名前が入るのが夢だったこともあって(笑)新潮の編集者に小説を書いてみたいと電話をしました。そのときには、すでに結末のシーンができていました。
― この物語は、主人公・恭平が祖父を危篤知り、祖父のことを回想するシーンからはじまりますが、これもすごく印象的でした。
坂口:まさにこの小説の中に出てきますが、祖父は子どもの頃よく入院していた僕をお見舞いしてくれたり、自動車で送り迎えをしてくれたりしてくれました。また、「お前はすごいやつだ」と言ってくれたりもしましたね。僕にとっての初めての理解者だったと思います。2001年に、ちょうどカンボジアに行こうとしていたそのときに祖父が倒れて、自分は何もできないまま(祖父は)いなくなったなあと思っていて。その年に今の嫁さん、『徘徊タクシー』ではルーという名前になっていますが、彼女と出会っているんです。
実はこういう話って、今まで書けなかったことなんですね。あまりにも日常的なことだったから。祖父の死も年齢がある程度いけばみんな接するものですから。
日常ってあまり記録しない世界ですよね。僕は日常のことを「日々の粒」と呼んでいるのですが、その粒は知らない間に通り過ぎていった“ふり”をしている。でもその粒ひとつひとつが、とても印象的に見えるんです。祖父とのエピソードを思い出すと、もう無限大に粒があるような気がするんですね。写真にも、文章にも残していない、当時感じていたことが。特別な体験でもなんでもないから、すぐに忘れてしまうけれど、実はそれって忘れたふりをしているだけなんじゃないかな、と思えてくる。
― 確かに記録はしていないけれど、記憶を辿ると何気ない日常がエピソードとなって頭によみがえってきますね。
坂口:これはみんなもあると思うんです。写真にも撮っていない、人生にとって日常の中の印象的なワンシーンがね。
(次回へ続く)
第62回は、『徘徊タクシー』(新潮社/刊)を刊行した坂口恭平さんです。
『徘徊タクシー』は、これまで坂口さんが書いてきた『TOKYO 0円ハウス 0円生活』『独立国家のつくりかた』『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』など、フィールドワークや実際の体験・活動に基づいた本とはまた違った、「フィクション」という手法で物語が描かれています。
徘徊老人を乗せて時空を旅するタクシー会社「徘徊タクシー」。この物語を通して、坂口さんが描こうとしたこととは一体なんだったのでしょうか?
(新刊JP編集部/金井元貴)
― 坂口さんがこれまで執筆されてきた本、例えば『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』『独立国家のつくりかた』などとは違い、この『徘徊タクシー』は小説という形で書かれています。坂口さんが小説を選択したというのはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
坂口恭平さん:以前からフィクションを書くという気配はあって、ノンフィクションを書いていても、どこかでフィクション的な要素が入っていたんです。例えば『TOKYO 0円ハウス 0円生活』に出てくる鈴木さんと川沿いで出会った話もどこか寓話的に思えたし、すごく物語性を感じていた。また、『独立国家のつくりかた』という本で僕は“新政府”を立ち上げたわけですけど、本当にそんなことをしたら僕は捕まってしまうわけですね。だから、“新政府”は物語であるということを前提に読んでもらわないと成り立たないんです。
― 現実のことを書いているとはいえ、どこかでフィクション的な要素が含まれている。
坂口:僕は現実で出会う人間に対して、その人が持っている物語性をすごく感じるし、その物語性が迫真性を持つときがあって、そっちの方へと引きずられていくこともあります。人はそれを妄想と呼ぶのですが、僕の中では妄想と思えないときがある。それは僕が躁うつ病だからというのも一つあるのでしょうけど、じゃあ、そのことを少しずつ書いていけばいいのかなと思っていたんですね。
― 『徘徊タクシー』も舞台は現実の日常に根ざしつつ、妄想が一気に広がるようなそんな展開を見せる小説です。
坂口:『徘徊タクシー』については、嫁さんに一度「こういう会社をやりたい!」と企画書をあげているんです。嫁さんは「はい、分かりました」と言いましたが、僕らの間には、妄想だけして実際にはしないという約束事があるんです。そうしないと、北杜夫先生の轍を踏んでしまうことになるので…(笑)。
その企画書は寝かせていたのですが、『ユマニチュード入門』という認知症の新しい介護のあり方を提唱した本の共著者であり、僕の小中高の先輩でもある本田美和子さんとお話する機会があって、「徘徊タクシー」について賛同してくれたんですね。
― 「ユマニチュード」は認知症の高齢者の徘徊などといった周辺症状が改善するというケア方法として話題ですね。認知症の老人たちの「徘徊」を捉え直す『徘徊タクシー』ともつながります。
坂口:そこで「徘徊タクシー」をやろうと思って嫁さんに電話をしたら、「小説を書いたらいいんじゃないの」という話をされて。ちょうど原稿用紙40枚ほどの短編小説を書いていたところだったし、高校時代、新潮文庫のさ行の棚に、自分の名前が入るのが夢だったこともあって(笑)新潮の編集者に小説を書いてみたいと電話をしました。そのときには、すでに結末のシーンができていました。
― この物語は、主人公・恭平が祖父を危篤知り、祖父のことを回想するシーンからはじまりますが、これもすごく印象的でした。
坂口:まさにこの小説の中に出てきますが、祖父は子どもの頃よく入院していた僕をお見舞いしてくれたり、自動車で送り迎えをしてくれたりしてくれました。また、「お前はすごいやつだ」と言ってくれたりもしましたね。僕にとっての初めての理解者だったと思います。2001年に、ちょうどカンボジアに行こうとしていたそのときに祖父が倒れて、自分は何もできないまま(祖父は)いなくなったなあと思っていて。その年に今の嫁さん、『徘徊タクシー』ではルーという名前になっていますが、彼女と出会っているんです。
実はこういう話って、今まで書けなかったことなんですね。あまりにも日常的なことだったから。祖父の死も年齢がある程度いけばみんな接するものですから。
日常ってあまり記録しない世界ですよね。僕は日常のことを「日々の粒」と呼んでいるのですが、その粒は知らない間に通り過ぎていった“ふり”をしている。でもその粒ひとつひとつが、とても印象的に見えるんです。祖父とのエピソードを思い出すと、もう無限大に粒があるような気がするんですね。写真にも、文章にも残していない、当時感じていたことが。特別な体験でもなんでもないから、すぐに忘れてしまうけれど、実はそれって忘れたふりをしているだけなんじゃないかな、と思えてくる。
― 確かに記録はしていないけれど、記憶を辿ると何気ない日常がエピソードとなって頭によみがえってきますね。
坂口:これはみんなもあると思うんです。写真にも撮っていない、人生にとって日常の中の印象的なワンシーンがね。
(次回へ続く)