遥かなるツール・ド・フランス 〜片山右京とTeamUKYOの挑戦〜
【連載・第2回】

 世界最高峰のレース――、ツール・ド・フランスに自らのチームを率いて参戦する、と宣言した片山右京。その壮大な夢に、誰もが驚きを隠せなかった。F1、そしてヒマラヤ山脈と、片山は様々なものにチャレンジし、その夢を実現させてきた。そして今、彼は何をキッカケに、自転車という新しい分野に目を向けるようになったのか――。

 片山右京は、昔から自転車競技と深い関わりを持っていたわけではない。この世界にのめり込む前は、自転車のスポーツライディングに対して、むしろ揶揄するような言辞(げんじ)を弄(ろう)することもあったという。

「F1引退後に今の会社(TeamUKYO/当時の主な活動分野は四輪モータースポーツや登山)を立ち上げて、その社員の中に高校時代の陸上部の後輩がいたんです。今、自転車ロードレースのチームマネージャーをしている井上(修一氏)なんですが、その彼がある日、何かのイベントの帰りに汗だらけの恰好で事務所にやってきて、『すいません、水をください』と言うんですよ。

 何をしているんだと訊ねたら、自転車の競技です、と。どうやら、マウンテンバイクの全日本選手権に出ていたらしいんですが、相手は自分の高校の後輩ですから、『エラいね〜、キミはまったく。そんなことをやって、いったい何が面白いのかねぇ』というふうに、メタボ化しかけた体型の僕は井上をからかっていたわけです(笑)」

 とはいいながら、その片山も子ども時代は、ごく普通に自転車を乗り回す少年だった。自転車マンガの先駆的作品『サイクル野郎』(1974年から1982年まで「少年キング」にて連載/荘司としお著)に触発され、中学時代にはサイドバッグ用のステー(金具)を自作して自分の自転車に取り付け、野宿ツーリングにも出かけた。

 F1の現役選手時代にも、トレーニングの一環として自転車を採り入れることはあったものの、この当時は自転車に対して、とりたてて強い関心や興味を抱くまでには至らなかったようだ。

「トレーナーがトレーニングにトライアスロンを組み込んで、自転車と水泳とマラソンをやるようになったんですが、何でこんなに自転車を漕がなきゃいけないんだ、と。トレーナーからは、『身体に無理な負担がかからなくて、上り坂で負荷がかかるから心肺機能にすごくいいんだ』と説明されて、たしかに今では9割のドライバーが自転車でトレーニングをしているんですが、そのころはそんな話を聞いても全然ピンとこなかった。サイクリングは楽しかったのに、競争で必死に下向いて、パワーを一定に安定させて、脈拍をコントロールして、乳酸値が上がって......って、全然こんなの面白くねえな、というのが、当時の印象でした。

 ただ、練習用にサイズを合わせて作ってくれた自転車に、ブルホーン(※)が装備されているのを見ると、子どものころに自転車をいじくってた記憶もあって、『あ、かっこいいなあ』と感じるような、そういう漠然とした興味はありましたね」

※ブルホーン=牛の角のように前方に突き出した形状のハンドルバーで、タイムトライアルなどで使用される。

 そんな程度の関心しか持たなかった片山が、あるときから、一気に自転車へのめり込む。

 その大きなキッカケになったひとつが、今中大介との出会いだ。

「たぶん、(自転車競技出身の)井上が画策したんだと思うけど、あるとき、仕事で今中さんたちと鼎談することになったんですよ」

 と、片山は回顧する。

 偶然にも片山と同年齢の今中大介は、近代ツール・ド・フランスに日本人として初めて参戦した選手である。ちょうど片山がF1でティレルに所属して世界を転戦していたころ、今中も自転車レースの本場欧州に渡り、ジロ・デ・イタリア(1995年)、ツール・ド・フランス(1996年)へ参戦するなどの競技生活を送っていた。

「今中さんがアルミフレームのロードレーサーを『乗ったてみたら?』と、1台くれたんですよ。それに乗った瞬間に、そのあまりのスピード感にビックリした。

 子どものときに初めて自転車に乗って体験する速度感覚ってあるじゃないですか。バンジージャンプで空に放り出されるような、あの開放感。大人になってずいぶんと時間が経つし、F1にも乗ってたくせに、想像していたのとまったく違うカルチャーショックがあったんです。それが9年前、42歳のとき」

 この出来事を契機に、片山は自転車ロードレースの競技へ、自らが選手として一気にのめり込んでいくようになる。

(次回に続く)

西村章●構成・文 text by Nishimura Akira