STAP細胞事件と論理学の重要性/純丘曜彰 教授博士
/AならばBである、Bである、ゆえにAである、というのは、論理学の初歩的な誤謬。改竄だ捏造だという以前に、こんな初歩的な論文の論理的欠陥が、国際水準の学術雑誌まで見抜かれなかったことの方が、もっと大きな問題ではないのか。/

 あいつは四十歳で取締役だってさ、よほど仕事ができるんだろう。よく聞く話だが、この推論は、論理学の、ごく初歩的な間違い。仕事ができれば四十歳で取締役になるかもしれない。だが、四十歳で取締役になったから、といって、それは、仕事ができる証拠にはならない。じつは救いがたい無能で、オーナー社長の隠し子であるだけかもしれない。

 今回の一件、変な地雷女の話ばかりが目立つが、学者として注目すべきは、研究チームはもちろん、理研からネイチャー誌のレフリーまで、ことごとく、この論理学の初歩的な間違いをやらかした、ということ。すなわち、STAP細胞ができていれば、キメラマウスができる、というのは正しい。だが、キメラマウスができた、ということは、STAP細胞ができていた、ということを証明しない。なぜなら、別のものでもキメラマウスはできるから。

 もっと図式的に言えば、AならばBである、Aである、ゆえにBである、というのは、論理学的に正しい。だが、AならばBである、Bである、ゆえにAである、とは言えない。先の例のとおり、AならばBである、かつ、CならばBである、かもしれないから。Bである、としても、Aではない、かつ、Cである、ということがありうる。

 論文というのは、論理的な立証が成り立っていないといけない。STAP細胞があろうと、無かろうと、推論にこのような論理上の致命的な誤謬がある以上、論文として成り立っていない。研究者として「未熟」な小娘は話にならないにしても、それに名を連ねたお歴々も、論考を職とする学者として大いに反省すべきところではないのか。この問題は、データの改竄だの捏造だのなどという「高度」な話ではなく、論文の論理性の初歩の初歩。あの地雷女がいてもいなくても、論理は、論文として絶対に担保すべき骨格。

 同様に、天才ならば変わり者だ、としても、変わり者である、ゆえに天才である、という推論は、論理的に間違っている。ところが、論文においてこのような論理的な間違いをおかした連中は、演出においても同じ間違いをやらかした。そして、世間も同じ論理的な間違いに引き込まれ、変わり者だから天才にちがいない、と思い込んだ。天才ならば変わり者だ、という前提とともに、バカならば変わり者だ、という前提も成り立つ以上、変わり者である、ということは、天才である、ということを証明しない。ただのバカかもしれないし、残念ながら、事実、後者の方の前提であったようだ。

 かつて論理学は、教養の基礎の基礎だった。ところが、いまや、国語、算数、理科、社会、そして英語。表面的な知識の学問ばかり。論理学は、国語からも、算数からも、抜け落ちてしまった。しかし、理屈、というのは、物事を考える上で、いや、人間が行動する、生活する上で、もっとも根本になるところ。それが、このように初歩の推論さえ、まともにできていないようでは、コピペ以前に、論理的に物事を考えることができない、なにが実際の行動においての善悪かも判断できない、ということになりかねない。(これは、AならばBである、Aである、ゆえにBである、という論理学的に正しい推論。)

 なんにしても、理系のトップクラスの思考力、論理学の実体が国際的にこのありさま、というのは、いろいろな意味で危機的だ。これじゃ、どうあがいても、原発事故なんか予見できまい。楽観的な都合のいい予測を立てるのは、役人だけで十分。学者である以上、名誉やカネより、論理的に正しいことにこそ研究の喜びを感じられるようになろう。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。