​アーティスト・ワナビーという病い/純丘曜彰 教授博士
/現代大衆社会の無名の恐怖から、ドシロウトは、現代アートだったら自分にもできそう、などと勘違いする。そうでなくても、近年は、アーティストをタレントとしてヴィジュアルで売り出すのが当たり前になって、イカモノだらけ。だが、本物のアーティストなんて、およそ幸せではない。才能も無いくせに、バカなことはやめておけ。/

 偽作曲家の話題が世間の耳目を集めているが、アートの業界では、近年、この種の似非アーティストは世界的に大量に発生している。それは、共同体を喪失した現代大衆社会と表裏一体の、一種の人格障害的な病いだろう。

 彼らは、アーティスト・ワナビー。芸術家になりたい、というだけの連中。絵が描きたい、曲を作りたい、小説を書きたい、というのではない。そういう面倒なことには、まったく関心が無い。だから、人の作品をパクることも厭わない。連中の言い分は、どうせパクられる側だって、それより前のパクリだろ、と、創造性の根幹も理解していない。BーズやKワタなんか、その典型。今回、ゴーストに頼んでカネを払っていたなら、まだ「良心的」かも。

 彼らの性根にあるのは、無名の恐怖。サルトルが言ったように、現代大衆社会において、一般人は自由を呪われている。ネコは生まれながらにネコであり、オーナー企業のバカ息子は世襲で社長になれる。だが、一般人はそうはいかない。満員電車に詰め込まれ、何事も人数でしか勘定されない。それどころか、学歴を途中でドロップアウトすれば、その人数にすら入らない。無だ。たとえ生きていても、この世にはいない。

 いまの時代、司法試験で弁護士に、とか、新党に潜り込んで政治家に、とか、人生の無から一発逆転を狙うドロップアウターだらけ。しかし、これらも、相応の才覚と努力がいる。ところが、白紙の楽譜だの、市販の便器を転がしただけだの、わけのわからない文章が連なっているだの、ジョン・ケージやフォンタナ、デュシャン、村上春樹を見て、ドシロウトは、ひらめく。こういう現代アートの分野なら、自分でもできそう、と。

 ピカソやダリ、ウォルホールや岡本、そして、ラッセンやキンケード、ヘミングウェイや太宰、カラヤンから中村・清水など、戦後、マスメディアの大量生産大量販売に乗せるために、クラシックなアートもアーティストをタレントとしてヴィジュアルで売り出すようになった。障碍者アーティストは世に溢れかえり、近年は、ポッツやボイル、へリングやバンクシーのように、市井の埋もれた天才、というのが大流行。だから、昔のお涙頂戴アイドルさながらに、そういう「感動の物語」をでっち上げ、映画だ、紅白だ、オリンピックだという大舞台に向けて、周到な準備でプロモーターがアーティストを売り出すのは、もはや業界の国際標準の常套手段。

 今回の一件は、そういうチーム内の分裂抗争で、業界ではよくある、鼻で笑うような話。(日陰のゴーストを主人公とする新しい「感動の物語」の絵図を画いた別のワルがプロジェクトを乗っ取った。マスゴミも、世間も、またそれに乗せられているだけ。)曲そのものが良い、などというバカがいるが、曲は既存スコアの切り貼りで、まともな耳の専門家なら聞く耳すら持たないような値段相応のシロモノ。かのゴーストライターは、映画などの効果音作りのためにオーケストラ譜を器用にいじくれる音楽エンジニアであって、モティーフの創造性と、それに対する執着が無い。これは、アーティストとしては致命的。「感動の物語」の外面を音できれいに塗り飾るだけのペンキ屋。このチームを持ち上げていた指揮者だの、評論家だのも、平気でカネで自分の耳を売る同類の売春人。

 本物のアーティストの内面は、みな幸福ではあるまい。偽アーティストはそれを見事に演じてみせたが、内面の葛藤が広島だ障害だなどと説明して人に簡単に理解してもらえるくらいなら、わざわざ難解な芸術に打ち込むまでもあるまい。音楽でも、絵画でも、小説でも、映画でも、工芸でも、舞踊でも、そのモティーフは、かってに内面から繰り返し沸き起こってくる、止めがたい情念のようなものであって、それをなんとか細切れにして吐き出して、どうにか日々を凌いでいる。書かずにはいられない、このままではモティーフに呪い殺されると思うから、作品にして、かろうじて抑え込んでいるだけ。その後に作品が高値で売られようと、毀誉褒貶にさらされようと、知ったこっちゃない。だから、サリンジャーのように、自分では世に出てこないアーティストがいくらでもいる。

 作らずにいられないモティーフが無いなら、それが幸せだ。無名でいられる無難さの幸運を思い起こした方がいい。それがわからないなら、激動の人生を送った本物のアーティストたちの本当の悲劇の伝記でも読んでみたらいい。どんなにカネや名声を得ても、だれも自分の内面からは逃れられない。だから、アーティストは、売れても、売れなくても、死ぬまで作品を作り続ける。

 アーティストなんて、格好だけマネしても、できるものではない。才能も無いくせに、この業界に足を突っ込んで、ドシロウトたちを騙し、マスコミで有名になって大金を儲けても、見る目のある人、聞く耳のある人には、絶対にバレている。外面ばかりを膨らませても、からっぽの空虚さは、より大きくなるだけ。なにも解決しない。もし本当にきみがそのからっぽの空虚さに耐えられないなら、その内面の空虚さと真剣に向き合うべきだ。その底知れぬ暗い深さこそが、本当の才能の源泉だから。そして、音楽でも、絵画でも、小説でも、映画でも、工芸でも、舞踊でも、本気で勉強し、真剣に努力し、尽きぬ思いを心の井戸から汲み出せば、作品とともに、きみは救われる。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)