ワイド画面は縦に使え!/純丘曜彰 教授博士
/ワイド画面は、瞬間的、生理的な視野のことしか考えていない。だが、思考は、時間的な脈絡を「視野」に収めること。電気屋に騙されてワイド画面を使っていると、瞬発脳筋バカになるぞ。/
スマホやタブレットが登場して決定的に変わったことは、画面の使い方。大半の人がワイド画面を縦に使っている。下半分に仮想キーボードを表示する都合から、こうならざるをえない。ビジネスの現場でも、モニタを縦置きしてデュアルに使っている場合が少なくない。キーボード付のノートパソコンだと、ワイド画面に加え、事務ソフトのリボンだかなんだかが上に覆いかぶさってきて、十数行しか見えない。だから、使いものにならない。よけい売れない。これらを見るに、この十年のパソコンのワイド画面化は大失敗だったと言わざるをえまい。
もともとワイド画面、アスペクト比16:9というのは、日本発だとか。アナログ時代から走査線の多いハイビジョンを研究していて、人間の視野が横長だ、だから、画面も横長であるべきだ、という理系の浅はかな理屈でこうなった。まあ、実際、人間の目が左右についているのだから、瞬間的な視野は、たしかに横長ワイドだろう。だが、文化史的には、意外にも横長の方が少ない。絵巻物や歌舞伎、映画のような見世物くらい。同じ見世物でも、オペラ劇場などはスクエア、場合によっては縦長ですらある。
視覚というのは、なにも瞬間的な認識のためだけにあるのではない。典型が本や図表。我々は時間や概念を把握するのに空間的な視野覚を使っている。たとえば針時計。時間を針の回転という空間的な広がりと移動に変換して視覚的に認識している。文章も同様だ。言葉そのものは時間線形的な音の結合体だったが、単語や漢字にすることで無時間的な概念にしている。そして、その長々しい連なりを、文や段落、章にまとめてあげいる。
だから、本でも、ウェッブページでも、横書きであれば、画面が縦長になるのは当然。我々は行の折り返しによって、時間や意味を文字群のまとまりにしている。それどころか、箇条書きでは各行の関係は同列無時間化される。これらを通覧し、大きなひとつの概念として認識するためには、全体が直感的に同時に視野に入る必要がある。スクロールでまた時間順序化されたのでは、わざわざ文章にした意味が無くなってしまう。
パソコンの横長ワイド画面化の弊害は、掲示板やツィッターの書き込みに見られる脳筋バカの続出でも明らか。連中の世界の奥ゆき広がりは、ワイド画面で見える、ほんのわずか数行。だから、瞬発力だけで、目に見えたものに即座に反応する。後先だの文脈だの考える余裕も力がない。当然、他人の文章や視点も視野に入らない。シューティングゲームかなにかなら、そんな調子でもいいのだろうが、文章というのは、表面的な言葉だけではない、いま目の前には見えていない言外の背景や状況まで背負っている。これらをも「視野」に収めて理解しないと、本当の意味で理解できるわけがない。
なんて書いているこの文章にも、この中の片言隻句だけに反応して、ケチをつける脳筋バカが続出するのが昨今の風潮。いや、それどころか、背景や状況を読み解いて文章に起こすべき新聞記者まで脳ミソが動物化して、あちこちに噛みついて内政から外交までグチャグチャに掻き回している。そもそも、政治家や経営者でさえ、どこかから流れてきた数行の情報に過剰反応して右往左往。頭の中まで横長ワイド画面化してしまっている。
電気屋のハイビジョン教に付き合って一緒に脳筋バカになる義理もあるまい。ワイド画面は立てて使おう。妙ちくりんな横長ノートパソコンなど買わず、タブレット縦置きに bluetoothキーボードを外付けして縦長ノートとして使った方が、ずっと仕事も捗るぞ。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。
スマホやタブレットが登場して決定的に変わったことは、画面の使い方。大半の人がワイド画面を縦に使っている。下半分に仮想キーボードを表示する都合から、こうならざるをえない。ビジネスの現場でも、モニタを縦置きしてデュアルに使っている場合が少なくない。キーボード付のノートパソコンだと、ワイド画面に加え、事務ソフトのリボンだかなんだかが上に覆いかぶさってきて、十数行しか見えない。だから、使いものにならない。よけい売れない。これらを見るに、この十年のパソコンのワイド画面化は大失敗だったと言わざるをえまい。
視覚というのは、なにも瞬間的な認識のためだけにあるのではない。典型が本や図表。我々は時間や概念を把握するのに空間的な視野覚を使っている。たとえば針時計。時間を針の回転という空間的な広がりと移動に変換して視覚的に認識している。文章も同様だ。言葉そのものは時間線形的な音の結合体だったが、単語や漢字にすることで無時間的な概念にしている。そして、その長々しい連なりを、文や段落、章にまとめてあげいる。
だから、本でも、ウェッブページでも、横書きであれば、画面が縦長になるのは当然。我々は行の折り返しによって、時間や意味を文字群のまとまりにしている。それどころか、箇条書きでは各行の関係は同列無時間化される。これらを通覧し、大きなひとつの概念として認識するためには、全体が直感的に同時に視野に入る必要がある。スクロールでまた時間順序化されたのでは、わざわざ文章にした意味が無くなってしまう。
パソコンの横長ワイド画面化の弊害は、掲示板やツィッターの書き込みに見られる脳筋バカの続出でも明らか。連中の世界の奥ゆき広がりは、ワイド画面で見える、ほんのわずか数行。だから、瞬発力だけで、目に見えたものに即座に反応する。後先だの文脈だの考える余裕も力がない。当然、他人の文章や視点も視野に入らない。シューティングゲームかなにかなら、そんな調子でもいいのだろうが、文章というのは、表面的な言葉だけではない、いま目の前には見えていない言外の背景や状況まで背負っている。これらをも「視野」に収めて理解しないと、本当の意味で理解できるわけがない。
なんて書いているこの文章にも、この中の片言隻句だけに反応して、ケチをつける脳筋バカが続出するのが昨今の風潮。いや、それどころか、背景や状況を読み解いて文章に起こすべき新聞記者まで脳ミソが動物化して、あちこちに噛みついて内政から外交までグチャグチャに掻き回している。そもそも、政治家や経営者でさえ、どこかから流れてきた数行の情報に過剰反応して右往左往。頭の中まで横長ワイド画面化してしまっている。
電気屋のハイビジョン教に付き合って一緒に脳筋バカになる義理もあるまい。ワイド画面は立てて使おう。妙ちくりんな横長ノートパソコンなど買わず、タブレット縦置きに bluetoothキーボードを外付けして縦長ノートとして使った方が、ずっと仕事も捗るぞ。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。