11月23日土曜日の午前9時、ブラジルGPの週末とはいえ、まだ人影もまばらなインテルラゴスサーキットのピットレーンは、冷たい霧雨に濡れていた。

 そんな中で行なわれたマクラーレンのチーム集合写真撮影は、まさしく今シーズンを象徴するような光景だった。すっきりしない天候のもと、ガレージの前に出されたマシン「MP4−28」は雨に濡れ、ドライバーもチームスタッフも雨を気にしながらカメラのフレームに収まる。

 その輪のほぼ中央に座っていたのが、今井弘エンジニアだった。

 元ブリヂストンのタイヤエンジニアとしての知識と経験を買われてマクラーレンに加わった今井は、今ではタイヤ分析など、レース戦略立案の根幹を担っている。さらにはタイヤをいかに使うかという観点から、マシンのメカニカル面(サスペンションやブレーキなど)のコンセプト設計にまで携わるほか、ホンダとの連携も担うなど、「プリンシパルエンジニア」という極めて重要なポジションにいる。

 今季、マクラーレンはマシン開発に失敗した。エアロダイナミクス(空力)が想定どおりに機能せず、マシン挙動が不安定で速さを発揮できなかった。

 そんな窮地にあるチームを、少しでも上のポジションに押し上げてきたのは、タイヤ戦略を司(つかさど)る今井の手腕によるところが大きかった。他チームより1回少ないタイヤ交換でポジションをジャンプアップさせたことは一度や二度ではない。

 そして、最終戦ブラジルGPもまた、今井の手腕が発揮されたレースだった。

 金曜日から土曜日まで断続的に雨が降り続き、一度もドライコンディションで走ることがないまま迎えた決勝の路面はドライ。まったく走行データがない中で決勝レースに臨むことになったが、今井には自信があった。

「あの状況は、我々にとってはメリットだったんです。事前のシミュレーションや準備の精度は高いと自信を持っています。我々は、(各チーム)走行データが少ない金曜日には良いところにいるのに、週末が進むにつれて(ライバルがデータを収集し始めると)ズルズルとポジションが落ちていくというパターンがよくあります。つまり、データがないところで勝負をするというのは我々にとっては良いことだったんです」

 今井の言葉どおり、予選Q2で敗退し、下位グリッドからスタートしたジェンソン・バトンとセルジオ・ペレスは、ドライコンディションの決勝で他を圧倒するペースを見せて次々とポジションを上げていった。

「ドライ走行のデータがありませんでしたから、過去のこのサーキットでのレースデータと今年のピレリタイヤのデータを元に、シミュレーターを使ってタイヤへの入力の分析をし、クルマのセットアップをして、それをクルマに当て込んで戦略を導き出したんです。あとはデグラデーション(タイヤの性能低下)が予想より少し大きかったので、レース中に少しずつ誤差修正をしながら戦いました」

 レース中の今井は、ピットガレージ中央でコンピュータの画面上に映し出されるマシンからの走行データを常にチェックし、ドライバー担当レースエンジニアや戦略専任エンジニアと緊迫したやりとりを交わしながらレース戦略に携わっている。

 ブラジルGP決勝、予定よりも早めにピットインしたマクラーレンの2台は、新品タイヤのグリップを生かしてハイペースで走行し、性能の低下したタイヤで走り続けた前走車たちがピットインしたときに前に出てさらに順位を上げていった。

 最終的に、14番グリッドスタートのバトンは4位、19番グリッドスタートのペレスは6位でフィニッシュし、今井は笑顔を見せた。

「デグラデーションが大きかった分、早めにピットインするメリットがありました。少し大胆ではありましたけど、かなり早め早めに(ピットストップをして)先手を打っていきました。ほぼ想定どおりでしたね。ジェンソンもチェコ(ペレスの愛称)もペースが良かった。チェコなんてごぼう抜きしていましたからね。久々に見ていて気持ち良いレースでした(笑)」

 バトンはレースを終えて「マシンの不利を戦略で補った見事な結果だ」とチームの戦略を絶賛した。ただし、マクラーレンは今季ついに一度も表彰台を獲得することなくシーズンを終えることになってしまった。伝統ある名門チームにとっては、現行体制になる以前の1980年以来という屈辱的な結果だ。

 実を言えばマクラーレンは、今季型マシンについてかなり早い段階で見切りをつけ、優勝や表彰台を争うことは困難だろうと認識していた。その分、彼らは2014年型マシン、そして「マクラーレン・ホンダ」としての挑戦となる2015年型マシンの開発へ注力していった。

「最初に走らせた時点で、そのマシンの素性や全体的なパフォーマンスは分かりますからね。そこから伸びしろも予測がつきますし。ですから、現実的に(早い段階から)来年に向けて考えていましたね」

 そんな状態で戦うシーズンでも、得られるものはあった。特に、今季の戦いにおいて比重が増したレース戦略については、新たなノウハウの蓄積が進んだという。

「いろいろと学ぶことができました。レース戦略や戦い方という点では、今年はトップを争っていた時とは違うことをやる必要があったわけですが、私としてはそれが非常に新鮮でしたし、勉強するところが多かったですね。来年以降はもうちょっと楽ができれば良いんですけど(苦笑)、生かせる部分が結構多いと思います」

 最終戦ブラジルGPもまた、まさにそんなレースだった。優勝したセバスチャン・ベッテル(レッドブル)、F1引退レースを2位で飾ったマーク・ウェバー(レッドブル)、3位フェルナンド・アロンソ(フェラーリ)の上位3台から20秒近く離されてのフィニッシュ。それでも巧みなレース戦略で4位、6位という結果をつかみとった。

 こうしてマクラーレンにとっては不遇の、そして学習のシーズンが終わった。イギリスのファクトリーではすでに2014年型マシンの開発が着々と進められており、そのプロジェクトに深く関わっている今井に、シーズンオフを満喫している暇などない。ブラジルからすぐに英国へと戻り、ファクトリーでの日々がまた始まる。

「これから来年用のクルマの開発が佳境に入りますから、休んでいる暇はないですね。クリスマス前には休暇に入りたいとは思っていますが(苦笑)」

 そう言いながらも、今井の表情は楽しそうに見えた。目の前に難題が用意されれば、それだけ探究心をくすぐられる。優秀な技術者とはそういうものだ。

 来年1月末のヘレス合同テストから始まるマクラーレンと今井の2014年の「逆襲」を、楽しみに待ちたい。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki