発話空間のある所はこういう経営側の欲求を満たすために実にうまく出来上がっているように僕には見える。

●高い意識の生産方法
「自分は他の普通の人たちと違って、そこらへんにはいない特殊な人間だ」
このように「自分は人とは違う」と思い込む為の文脈はそこらへんにあふれている。
ヤンキーになるにしてもオタクになるにしても、リア充になるにしても非リアになるにしても、
そこには常に「オレって量産品じゃない」という自覚のチャンスが用意されてる。

おそらく誰だって「オレって人と違うな」という自覚位は持ったことがあるだろう。
僭越ながら、それはそう思い込みやすいようにこの世が組みあがっているせいだ。

どういうことか。
例えば学校なら「普通の人を生産しようと言う強制」に反発すればするほど「特殊な自分になれる」という実感を買う事が出来る。
授業を「ダルい」と連呼すればするほど、というかするだけで「普通の人を生産しようとする工程から外れている」という自覚を実に安く買える。

これは別に学校がその事を目的として作られた。と言いたいわけではない。
けもの道みたいに出来上がってしまった経路だと思って欲しい。

刑務所がその意図と逆に犯罪を再生産する機能を提供してしまっているのと全く同様だ。学校も「普通の人を生産する」という意図と逆に「オレは普通の人ではない」と思い込むチャンスを生徒に与えてしまっているように僕には見える。 学校があるから反抗する対象が明白になってしまっている。
尾崎豊が何故に「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」のかと言えば、それはそこに校舎があったからで、もし校舎なんてものがこの世になければ、彼はバイクの窃盗で捕まる「普通の」犯罪者になっていたし、どこにでもいるバイクの窃盗犯の歌に耳を傾ける人などいなかっただろう。

違う例を挙げれば、「なんでもいいから何かの作者になりたい」つまり「クリエイターになりたい」という世代年代を通して普遍的な欲望も「替えのきかない人になりたい」という願いの一つの現れ方なんだと思う。そういう願いを持っている時点でオリジナルな人材とはいえなさそうなのにね。

ことほど左様に、6歳から始まる若者の社会生活の前半は「オレはそこらへんにはいない特別な人間=替えのきかないだ」と自覚させてもらえるチャンスが溢れている。


というわけで、「社会人の生産システム」はそのデザインの意図とは真逆に「俺は替えのきかない人」という自覚を量産してしまう。
しまうんだけど・・・悲しいかな、若者の身体は普通の人になるべく調理されているので「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」として出荷されてしまう。

しかも沢山出荷されてしまう。
経営側からみれば、それを放っておく手は無いよね。

●それはどうして危険なのか
上記のような仕組みで「普通の身体と”普通じゃない”心」のパッケージが量産される。
しかも、この仕組みは全国津々浦々大体どこにでもあるので、大量に出荷される。

大量に似たようなものがあるって事は、それを安く買えるって事だ。

供給は需要を生み出すわけで、この手の人たちが安く出回っている事に気付く人は気付く。
そしたら「安く仕入れた意識の高い人たち」を使って美味い商売をしようと思うよね。これがブラック企業を生み出す。


ブラック企業問題は「たちの悪い企業がほかの企業の中に紛れ込んでいて、その罠に嵌ってしまう若者がいる」という単純な仕組みではない。
「自分の事を”替えのきかない人材”だと思っている”替えのきく人材”」が安く大量に出回っているからこそそういうビジネスモデルの会社が伸びる、という競争条件に関連する問題なのだ。