誤解を恐れず言えば、ブラック企業は単に合理的な商売をやっているだけで、彼らに安くて便利な労働力を供給してしまった側にも問題がある。

そう考えると、文化として当然発生する「若者らしい反抗」すらも実に巧妙に巨大な経済装置に組み込まれてしまったかのように見える。マトリックスの仕組みをイメージするとわかりやすい。「人類の反乱」それ自体が一種の予定調和でそれすらもマトリックスの企みだったっていう。

こうなると、最初の設問に立ち返って、個人としての最適解が「替えのきかない人材になる」って発話が正しいのかどうか自信がなくなってくる。
頑張って頑張って「替えのきかない人材」になった所で釈迦の掌の上なら意味がない。

●じゃあどうするのか
一歩退いて考えれば家族以外のコミュニティで「替えのきかない人材」になった所でなんだと言うんだろう。当たり前だけど僕と同じような給料で僕と同じ事が出来る人は幾らでもいるわけで、個人が経済システムに対して脆弱なのは今に始まった話じゃないから、そこを突き詰めすぎても仕方ない。

そろそろまとめると。
戦う相手は「個人を特別では無くする仕組み」では無いという気がしてきてしかたない。そこへの戦いはもう負けたとして次の戦地に移るべきなのだろう。

上に挙げたような「普通の人を生産しようとする仕組み」に反抗しなければ得られないような「自己肯定感」は所詮量産品でしかない。

一番いいのは「自分は生まれながらにして価値のある人間である」という健康的な自覚を身体に伝える。
だれがやるのか その人を産んだ家族がそれをその人に伝える。
そうすれば「自分は特別かそうでないか、いやどうか」という戦いを避けられる。

普通であるかそうでないか、替えがきくかそうでないか、その悩みを忘れる事からすべては始まる。

オリジナルである事を追求しすぎても、結局コモディティになるだけ。
身体的実感、原始的自覚として、「自分は何もしなくても特別」と感じる事の出来る子供。
こういう子供を増やしていくのが、ぱっと思いつく戦い方だ。

と考える次第。

執筆: この記事は笹生英作さんのブログ『雛形の祭典』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年05月07日時点のものです。