対談はハモニカキッチン2Fにて収録。

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ハモニカキッチン生みの親・手塚一郎さんは、どんな道を辿って現在に至ったのか。なぜ、人がやらないことを思いつけるのか。栃木から出てきた青年が、ちょっと変わった電器屋さんを経て、吉祥寺を面白くするまでの不思議な物語。吉祥寺を20年以上観察してきた三浦展さんが訊き出します。

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手塚一郎(Ichiro Tezuka)
1947年、栃木県生まれ。国際基督教大学卒。79年、吉祥寺にビデオ機器販売店を開店。81年にビデオ・インフォメーション・センターを設立。98年、吉祥寺駅前のハモニカ横丁に「ハモニカキッチン」を開店。現在は同横丁内だけでも10店を展開。
三浦 展(Atsushi Miura)
1958年、新潟県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、パルコに入社、情報誌「アクロス」編集長を務める。90年、三菱総合研究所入社。1999年、カルチャースタディーズ研究所設立。家族、若者、消費、都市問題などを研究。近著に『第四の消費』(朝日新書)、『東京は郊外から消えていく!』(光文社新書)。

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■宇都宮のすっぽん屋の息子

【三浦】手塚さんのここまでの話を聞かせてください。

【手塚】ぼくは栃木の宇都宮出身なんです。ぼくには東京は「逃げてくる場所」でしたね。立松和平と同級生なんですよ、同じ宇都宮高で。

【三浦】手塚さんのご実家は何屋さんだったんですか。

【手塚】ぼくの家はすっぽん屋。すっぽんの生き血を飲ませる店。うちは国鉄の宇都宮駅前の大通りっていうところにあって、すごい繁華街だったんですよ。今は、もうひどく空洞化しちゃってる。宇都宮には上野百貨店と福田屋百貨店という地元の百貨店が2つあったんだけれど、今は街中には両方ともなくなった。

【三浦】上野百貨店が潰れて、福田屋が郊外に行っちゃったからね。

【手塚】宇都宮の街中には二荒山神社って、すごいちゃんとした神社と門前町があったのにさ。

【三浦】以前、宇都宮の元ガングロの女の子に取材したんだけど、今はもうないけれど、宇都宮に109ができて、「ガングロの子だからうれしいでしょ」と訊いたら、駄目だと言うの。「109っていうのは店員なんだ。モノじゃない。渋谷のカリスマ店員がいるから109なので、宇都宮にそれができてもしようがない」と。その子は渋谷の109には行ったこと、ないんですよ。あくまでも情報なの。彼女からすれば、宇都宮に109ができてもしようがないの。渋谷、カリスマ店員、ガングロというものがひとつになった世界が109だから、それが単に支店化しても行きたくない。

【編集部】ああ、「ラフォーレ原宿新潟」みたいなものですね。

【三浦】そうそう。そこは原宿じゃないでしょう、と(笑)。そういう意味じゃ、ハモニカキッチンっていうのもここにあるからハモニカキッチンなんだよね。

【手塚】宇都宮の109は、あっという間に引き上げたね。今、宇都宮に帰ると空洞化はひどい状況ですよ。同級生がまちおこしとかいってプランを送ってきたので見たけれど、難しいね。何か、頭でっかちなんだよな。

【三浦】手塚さんは、宇都宮を出たかったわけですか。

【手塚】ぼくは四人きょうだいの長男で、久々にできた男の子で、優等生。それが東京に出てきた理由でもあるんだけど、高校のときに優等生をやることに行き詰まりを感じて。もうめちゃくちゃ息苦しくて。

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■立松和平
たてまつ・わへい。小説家。1947年、栃木県生まれ。早稲田大学卒。1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞受賞。1986年から「ニュースステーション」に木訥な栃木弁で語るレポーターとして出演。2010年没。
■上野百貨店
うえのひゃっかてん。1895年創業の宇都宮の地元百貨店。1960年代まで地域一番店だったが、東武、西武、地元の福田屋との競争や郊外展開の失敗が原因となり、2000年12月に自己破産した。
■福田屋百貨店
ふくだやひゃっかてん。1934(昭和9)年創業の宇都宮の百貨店。1970年代より郊外展開を進め、現在は中心市街地に店舗はない。
■二荒山神社
ふたらやまじんじゃ。正式名称「宇都宮二荒山神社」。飛鳥時代に起源を持つ下野国(現在の栃木県)一宮(いちのみや。その国で第一の神社の意)。宇都宮市馬場通に鎮座。門前市の仲見世通り(現在のバンバ通り)は、戦前まで宇都宮一の繁華街だった。宇都宮パルコ(1997年開業)はバンバ通りに面している。
■ラフォーレ原宿新潟
1994(平成6)年、新潟市内の複合ビル「ネクスト21」の商業施設として開業。「ラフォーレ新潟」ではなく「ラフォーレ原宿・新潟」。現在はラフォーレの名を冠する唯一の地方店。

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■大学にはドラッカーを勉強しにきたんですよ

【三浦】手塚さん、何年生まれでしたっけ。

【手塚】昭和22年生まれです。

【三浦】団塊の世代ですね。

【手塚】だから競争好きなんですよ(笑)。高校生のときに書道の先生が岡本太郎の話をして、ぼくは岡本太郎が大好きになって、そうしたら勉強なんて何なんだと思い始めて、何でもいいから、故郷を出れるならどこでもいいからっていって、ICUに来ちゃった。

【三浦】当時、ICUを進学先に選ぶ人って珍しかったんじゃないですか。

【手塚】ぼくも全然知らなかったもん。友だちに宇都宮大学の東洋美術か何かの教授の息子がいて、「こういう大学があるんだけど」と教えられて。

【三浦】ICUだけ受けたんですか。

【手塚】いや、早稲田とかも受けましたよ。早稲田に行ってりゃ、もうちょっと一般的になれたかも(笑)。もともと天の邪鬼でひねくれているぼくがICUに行ったから、それでこんなになっちゃった(笑)。あそこはもう外国でした。英語だらけだし、ダンスパーティーはあるし、東京の女の人はきれいに見えるし。

ICUのキャンパスがある(三鷹市の)大沢は、東京というには田舎だったけどね。でも、東京に出てくれば、たくさん可能性があって、何か、もっと自由になれるのかなと思っていたんです。

【三浦】学生のころの手塚さんは、どんな仕事に就きたかったんですか。

【手塚】具体的な仕事というものはなかったですね。ただ、商売人の息子として育てられたので、好きな文学や芸術じゃ、食べていくのも、人の役に立つこともあまりうまくいかないだろうなと思っていて、大学にはドラッカーを勉強しにきたんですよ。最初は社会学とか経済学をやっていたんですが、何か難しくてよくわからなくて、逃げ出して現代美術に行っちゃったんです(笑)。卒論は現代美術で書きました。

【三浦】そのころから吉祥寺在住ですか。

【手塚】始めは、大学の中にある寮に入りました。

【三浦】で、遊ぶのは吉祥寺?

【手塚】遊んでたかな。まあ、ときどき「ファンキー」でジャズを聴いたり。そういえば、「ファンキー」とか「サムタイム」とかやっていた野口伊織の奥さんは栃木の人なんだよね。あと、らかんスタジオの奥さんも栃木。で、その「ファンキー」でコルトレーンを最初に聴いたときに、ぼくは書道をやっていたから、すげえなと思いましたけど。

【三浦】書道とコルトレーン?

【手塚】コルトレーンみたいな書道だったんですよ(笑)。その少し前、高校生のときに田舎の古本屋で、これはちょっと大げさな話なんですけど、ポロックを観たんです。そうしたらぼくがやろうとしていた方向とほとんど重なっていて、「あっ、ぼくはもうどんなことをやっても駄目だ」と。

【三浦】文学や芸術の仕事はできないと思っていたけれど、好きだったんですね。

【手塚】好き。新しいものとか、変わったものとか。これは団塊の世代の特徴なんじゃないですかね。ただ、好きだったけど、それを仕事にするには、普段の付き合いから叩き上げていかないと議論も何もできないなと思って、演劇の記録撮影を請け負う会社を始めたわけです。

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■ICU
国際基督教大学の略称。1949年、三鷹市に開校(53年より四年生大学に)。リベラル・アーツ(教養)教育を重視し、学部は創立当初から教養学部のみ。
■野口伊織
のぐち・いおり。吉祥寺の実業家。1942(昭和17)年、東京都生まれ。中等部からの慶應ボーイ。中学時代の初恋の人は、コム・デ・ギャルソンの川久保玲。1966(昭和41)年、ジャズ・バー「Funky」を吉祥寺に開店。以後も「be-bop」「赤毛とソバカス」(ロック喫茶)、「アウトバック」(ショットバー)、「蔵」(日本酒)、「レモンドロップ」(ケーキ)、「金の猿」(日本料理)など吉祥寺を中心に飲食店を多数展開。2001(平成13)年、脳腫瘍で死去。享年59。
■らかんスタジオ
吉祥寺の写真スタジオ。1921(大正10)年、ニューヨーク五番街で開業。1935(昭和10)年に吉祥寺にスタジオ開設。現在は吉祥寺(2店)、宇都宮など計8店を展開。
■コルトレーン
John Coltrane. 1960年代のジャズを代表するアメリカの黒人サックスプレイヤー。1926年生まれ。代表作「ジャイアント・ステップス」(1960)。67年、肝臓癌で死亡。
■ポロック
Jackson Pollock. アメリカの現代画家(抽象表現主義)。1912年、アメリカ・ワイオミング州生まれ。シュールレアリスム、ピカソ、インディアン美術などの影響を受ける。画布を床に敷き絵具を上からたらす「ドリッピング技法」で知られる。56年、交通事故で死亡。

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■たぶん日本で始めてのビデオショップ

【三浦】就職はしていないんですね。

【手塚】幸運にも一度もしたことないんですよ(笑)。学生時代の1972年に、学内有線テレビのグループを始めて。これがビデオ・インフォメーション・センターの前身。当時、ソニーが「ポーターパック」というビデオセットを50万円ぐらいで出していて、学校の牧師さんからお金を集めてそれを買って。でも、ぼくが卒業するほとんど間際だったんで、1年生をかき集めて、騙すようにグループをつくって、すぐ翌年に卒業しちゃったんです。

卒業して、「じゃあ、外でも同じようなことやろうか」って、演劇や舞踏の撮影を仕事にしてみたんだけど、そのころ、ビデオテープの値段が1時間1万円もしたんですよ。それを50時間も撮ると月給5万円ぐらいにしかならない。体の具合も悪くなって「こりゃ駄目だ」と。じゃあ、ビデオデッキを売る商売でもしようか、と吉祥寺に店を出しました。ソニー、ビクター、パナソニック……そのころはナショナルって言いましたけど……と契約して、これは儲かりましたね。

【三浦】それがいつごろですか?

【手塚】ビデオ専門店に辿り着くまでけっこうかかって、始めたのが1979年。ビデオの機材の販売だけでなく、レンタルとか、編集、ビデオ撮影教室なんかもやっていました。

【三浦】そのときにはもう「ビデオ・インフォメーション・センター」という今の名前だったんですね。

【手塚】そうです。会社組織にして。けっこう真面目なんです(笑)。大学のときにつくった「ビデオ情報センター」の名前をそのままずるずる引きずって。

【三浦】じゃあ、店を開くまで10年近く、撮影の仕事をしていたんですね。

【手塚】そうです。あの頃撮ったものが今、文部科学省から予算が出て、デジタルのビデオアーカイブになったりしています。その前に、MOMAのキュレーターが来て、MOMAに収蔵するから50品目決めろとか言われたこともありました。

【三浦】紅テントとか、当時のアングラ演劇を撮影していたんですよね。

【手塚】そうです。舞踏の大野一雄とかね。

【三浦】吉祥寺に店を開いてからは、実際にはどんな仕事をしていたんですか。

【手塚】当時20万円ぐらいのビデオデッキを売っていました。

【三浦】79年で買う人いたんですか。

【手塚】いたいた。たぶん日本で始めてのビデオショップだったんですよ。「ビデオサロン」という雑誌で、小さな宣伝広告を出したら、北海道からも九州からもお客さんが来た。電気通信大学のオタクもたくさん来た。20万、30万円のビデオデッキやビデオカメラをみんな買うんですよ。ソニーのベータマックスをつくった、みんなの憧れの技術者を呼んでパーティーをやったりすると20人ぐらいお客さんが集まって、30万円のビデオデッキを10台とか予約してくれる。それだけで300万円。でも全部ビデオテープに使っちゃったんだよ(笑)。

【三浦】当時のビデオカメラだと、まだ重かったでしょ。

【手塚】重かったですね。でも、それで電通大のオタクが、今で言う「セーラームーン」みたいな映像つくったりしてるんですよ。いやあ、変わった人たちがいるんだなと思って。

【三浦】79年に店を始めて、何年かするとビデオが一般に普及してきますよね。

【手塚】そうです。1995年を過ぎたあたりでもう2、3万円。98年にはビデオデッキが1万円を切り始めた。これはもう、この仕事は終わったなと。ソニーも自前のソニーショップをつくって量販店に対抗しようとしたんだけれど、結局はヨドバシ、コジマ、ヤマダに敗れていく。ああいう仕事、店頭に立って叫んで売ってなんて商売は、ぼくには向いていないだろうなあ、と思って。ぼくの短い人生で、あんなことするのは嫌だなあと思っていました。

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■ポーターパック
1964年にソニーから発売されたオープンリール式可搬型ビデオレコーダー「CV-2000」と、66年に発売されたポータブルビデオカメラ「DVC-2400」のセット名称。
■MOMA
Museum of Modern Art. ニューヨーク州マンハッタンにある近現代美術専門の美術館「ニューヨーク近代美術館」の略称。1929年開館。
■紅テント
あかてんと。俳優・劇作家・演出家の唐十郎(から・じゅうろう。脚注後出)が主宰した劇団「状況劇場」の通称。1967年、新宿・花園神社境内に紅色のテントを設営し、「腰巻お仙」を上演したのが由来。神社及び周辺商店街から排斥運動が起き、翌年に撤収。
■大野一雄
おおの・かずお。1906年、北海道生まれ。弟子の土方巽(ひじかた・たつみ)と並ぶ戦後日本を代表する舞踏家。日本体育会体操学校(現日体大)卒の元体育教師。2010年に103歳で没。

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<次回予告>ハモニカ横丁の中に小さなビデオテープの店を出していた手塚さんは、ある日、その2階で焼き鳥屋を始める。なぜいきなり焼き鳥? どうしてビデオショップの経営者が、いきなり飲食を? その「ジャンプの仕方」は、そのまま手塚流マーケティングを読み解く鍵になる。三浦展さんとの対談第3回《ハモニカキッチン誕生》は10月17日掲載予定です。

(ビデオ・インフォメーション・センター代表取締役 手塚一郎/社会デザイン研究者 三浦 展/構成=オンライン編集部 石井伸介)