朴正熙狙撃から52年…「文世光事件」映画が韓国で波紋 大阪の派出所から盗まれた拳銃と韓国政府が要求した朝鮮総連の“解体”
韓国で1974年8月15日に起きた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領狙撃事件を題材にした映画「暗殺者(たち)」が公開され、波紋を広げている。
事件から52年。映画は、在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)による単独犯行とされてきた事件について、別の人物が関与した可能性を示唆する内容だ。
映画に対しては「歴史のねつ造だ」との批判が出る一方、制作側は、当時の記録を基に映画的想像力を加えた作品だと説明している。制作陣に対しては、死者名誉毀損などの疑いで警察に告発が行われた。
韓国で公開された外交文書によれば、この事件をめぐっては、当時から日本と韓国の捜査当局の認識が大きく食い違っており、韓国側は、事件の背景に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)関係者がいるとして、総連の解体などを求め、日本との外交関係断絶も念頭に置いていた。
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金大中拉致事件の翌年に発生
文世光は1974年8月15日、ソウルの中央国立劇場で開かれた光復節(独立記念日)式典に侵入し、朴大統領に向けて拳銃を発砲した。朴大統領は無事だったが、妻の陸英修(ユク・ヨンス)が銃撃を受け死亡した。
朴正熙狙撃事件の現場(筆者提供) 日本の警察白書によれば、文世光が使用した拳銃は同年7月、大阪府南警察署高津派出所から盗まれた2丁のうちの1丁だった。日本の警察は、拳銃窃盗について文世光の単独犯行と判断している。
事件前年の1973年8月に東京・ホテルグランドパレスで金大中拉致事件が起きた。韓国の野党指導者だった金大中は、韓国中央情報部(KCIA)によって日本から拉致され、日本政府は韓国側に強く抗議した。日韓関係が緊張する中で起きたのが文世光事件だった。
文世光は日本で他人名義の旅券を不正に入手して韓国へ渡り、日本大使館員を名乗って式典会場に入ったとされる。日本側の捜査では、拳銃窃盗などについて文世光を1974年12月に大阪地検へ送致。翌1975年1月、不起訴処分となった。
ところが韓国側の捜査結果は全く違った。
「残された家族については全責任を負うので安心して決行せよ」
韓国当局は、文世光が朝鮮総連の関係者から指示を受け、朴大統領暗殺を計画したと判断した。
文世光と朝鮮総連関係者との接触をめぐっては、日本側も調べたが、暗殺計画への直接的関与を裏付ける証拠は確認できなかった。総連側も関与を全面的に否定し、むしろ韓国側の「政治的謀略・ねつ造」であると反発した。
韓国政府が2005年に、この事件に関する外交文書を公開した。筆者は、情報公開の手続きを踏んで全文を入手している。
全15巻のこの外交文書には、文世光が「朴正熙大統領の暗殺が南朝鮮の革命を起こす決定的なきっかけになる」と説得されたとの供述内容が記録されている。
また、日本の警察から盗んだ拳銃を使うことは、「日本の手先である朴大統領を日本政府・警察の武器で殺害するアイロニー(皮肉)を演出する」という意味があったと語っていた。
韓国側の捜査記録には、銃の引き金を引く感覚について「静かな水面に月光が落ちるように」「夜空から露が降りるように」と指導され、「残された家族については全責任を負うので安心して決行せよ」と説得されたと具体的に書かれている。
握力を鍛える訓練も受けたとされるが、これらは韓国側の捜査や文世光の供述に基づく内容であり、日本側が同じ事実認定をしたわけではない。
「総連を非合法化せよ」と韓国が要求
事件後、韓国政府は日本政府に対し、事件への日本側の責任を認めることに加え、文世光をそそのかしたとされた朝鮮総連関係者の捜査、身柄引き渡し、捜査官の相互派遣などを要求した。
さらに朝鮮総連の「不法(非合法)化」や関連教育機関の規制、関連金融機関や商工人への規制、税務調査の強化などを求める強硬な姿勢を示した。
韓国側は、日本政府の対応次第では駐日韓国大使の召還を手始めに、外交関係の全面的な断絶(断交)に至るまで5段階の対抗措置を用意していた。
日本政府は、事件の準備が日本国内で行われたことへの遺憾の意を表明する一方、合法的な政治活動を理由に朝鮮総連そのものを一律に禁止することはできないとの立場を示した。
その一方で、韓国外交文書によれば、日本政府は非公式に、「公安調査庁が朝鮮総連を調査対象としており、可能な範囲で最大限、行政的な規制を検討する」とする木村俊夫外相の意向を伝達していたという。
結局、事態収拾のため、田中角栄首相の親書を携えた椎名悦三郎自民党副総裁が1974年9月に訪韓した。日本側は事件への「道義的責任」を認め、再発防止や捜査への協力姿勢を示した。これによって、断交にまで発展することが懸念された日韓関係は、ひとまず最悪の局面を脱した。
文世光は事件から約4カ月後に死刑が執行された。刑執行直前には「朴大統領と国民の皆様に対して大変申し訳ないことをした」「だまされていた。このような罪を犯した以上、自分は死刑を受けて当然だ」などと語っていたというが、犯行の背景など謎は残ったままだ。
2006年から対北朝鮮制裁強化
この事件は、日本における朝鮮総連の活動をめぐる問題を日韓外交の課題に押し上げた。
大きな転換点となったのは、事件から32年後の2006年のことだ。
この年、北朝鮮が7月5日にテポドン2を含む弾道ミサイル7発を発射し、10月9日には核実験を実施した。
日本政府はこれを受け、日本と北朝鮮を往来していた貨客船、万景峰92号の入港禁止、北朝鮮当局者の入国制限などを実施し、その後、北朝鮮籍船舶の入港禁止、北朝鮮からの輸入禁止など、制裁を大幅に強化した。朝鮮総連関連施設への捜索なども行われ、総連側との緊張も高まった。
1974年の文世光事件から、すでに半世紀以上が過ぎた。
映画が再びこの事件を掘り起こしたことで、暗殺の真相だけでなく、当時の日韓関係と朝鮮総連をめぐる激しい外交交渉にも関心が集まりそうだ。
文/五味洋治 内外タイムス
