《オーディション落選300回、ホステスのバイトで食い繋ぎ…》1歳半で聴覚を失った“五輪女優”大城桜子さんが夢をあきらめなかった理由「叶えたNHK連続ドラマ出演」
「東京2020パラリンピック」開会式のパフォーマーに選ばれ、女優としてドラマに出演するなど、芸能活動を続けてきたろう者の大城桜子さん。難病を患い、現在は故郷・沖縄で療養中だ。
【写真を見る】2022年にNHKの連続ドラマ『あなたのブツが、ここに』で女優デビューを果たした大城さん。「東京2020パラリンピック」開会式にパフォーマーとして出演した際の様子なども
しかし体調は少しずつ回復し、昨年から防災士としても活動を始めたという。そんな大城さんにパラリンピックの思い出、ろうという個性をもつ女優としての道程、苦労、夢などを聞いた。【前後編の後編。前編から読む】
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「パラリンピック」開会式への出演は、私にとって良い経験となりました。
本番は楽しいというより、てんやわんやでした。音楽がロックで早かったので、ついていくのが大変でしたし、私の衣装と器具がトラブルで故障してしまい、器具が飛び出さないようにセロハンテープで補強しただけで本番を迎えてしまったので、あまり派手に動かないよう心がけました。もし器具が落ちてしまったら、目の見えない方や車イスの方に迷惑をかけるので、車いすの出演者にケガをさせないよう、ベストなパフォーマンスを心がけ、会場のみなさまにとって歴史的で最高の思い出に繋がれてよかったという安堵感が大きく、大きな達成感がありました。
その後、オーディションで選ばれ、NHK Eテレの『バリバラ~障害者情報バラエティー~』という番組に出演することに(そのときから、本名の大城早貴ではなく、大城桜子という芸名を使用しています)。そして、『バリバラ』から、2022年にはNHKの連続ドラマ『あなたのブツが、ここに』につながり、女優デビューすることができました。NHKスペシャルドラマ『南海トラフ巨大地震』にも出演することができて、私にとってパラリンピックはやはり大きな転機になりました。
ただ、この間も体調不良は続いていたので、「いつまた症状がでるかもしれない」という不安と闘いながらの活動でした。金銭的な不安もありました。アルバイトをしながら俳優を続けている人は多いですが、耳が聞こえないとアルバイトを見つけるのにもかなり苦労します。飲食店の調理やウエイトレス、事務、ホステス、ホテルの清掃、障がい者施設の生活指導員、介護スタッフ……。常時2つかけもちして、やりくりしていました。
ホステスは大変そう? 昼間は撮影があるので夜のお仕事は助かるし、耳が聞こえなくても紳士的に対応してくださった方ばかりで、とても助けられました。理解あるママや女性スタッフのフォローもあり、いろいろと助けられ、楽しい時間を過ごせることが多く、とてもありがたかったです。
「耳が聞こえない」それでも目指した女優
私の耳は、1歳半のとき、滲出性中耳炎が原因で聞こえなくなりました。幼い頃は手話が禁止だったので、3歳半から県立沖縄ろう学校に通い、相手の唇の動きを見て話していることを理解したり、日本語の読み書き、発声法(口話法)を学びました。耳が聞こえないと日本語を身につけるのに、とても苦労するんですよ。
しかも、沖縄ろう学校は家から車とバスで片道1時間半。ろう学校は親子通学が必須なので、母は仕事を辞めようか、とても悩んだそうです。幸い、面倒見の良い主婦の方を紹介していただき、その方が母に替わって、私の通学と勉強を助けてくれました。その方は私をとてもかわいがってくれました。本当にありがたく、その方は私の"第2の母"だと思っています。
高校卒業後は美容学校へ通い、最初は東京で美容師をしていました。20歳のとき、テレビで見たミス・ユニバース・ジャパンの募集に軽い気持ちで応募したのが、私の挑戦の始まりです。ただ、そのときは3次審査まで残ったものの辞退。改めて自分の人生を考え直し、半年後、美容師を辞めて沖縄へ。那覇市のスクールに通い、2012年ミス・ユニバース・ジャパン沖縄に再度挑戦し、沖縄ファイナリストに選出されました。
モデルやイベントの司会、ラジオ番組出演などのご縁をいただき、応援をたくさんいただきました。それまで"壁"だと思っていた"聞こえない"ということも、必ずしも壁ではないと知りました。それで「もっとろう者のことを知ってほしい」と、女優になる決意をしました。
東京で演出家・奈良橋陽子さんの俳優養成所「アップスアカデミー」で演技について学び、2017年に卒業してからは、多くのオーディションに挑戦しました。でも、断られてばかり。300以上は断られたと思います。
耳が聞こえないことが理由のときもあり、とても苦しかった。聞こえないことへの理解を得るのは難しい。私は唇の動きを読んで相手の話を理解し発声もできますが、細かいことまで正確にコミュニケーションをとるには手話通訳を派遣してもらいたい。でも、制作会社には経費の関係で断られました。ほかにも、ギャラをくすねられたり、オーディション会場に行ったら誰もいなかったり。
聞こえない私は、そのことによる悩みを相談できる人もいませんでした。俳優の友人とは一緒に遊んだり、俳優としての悩みは理解し合えても、耳が聞こえないことによる悩みに共感してもらうのは難しかった。それでストレスがたまっていき、体調不良につながったのだと思っています。
追い詰められて、「これが最後」と応募したのが、「パラリンピック」開会式のパフォーマーのオーディションでした。こんなにがんばってダメなら、応援してくれた人ももう許してくれるかなと。でも、そこから女優の道が開けていきました。
演技は苦労もありますが、よろこびも大きい。観た人に私の表現が伝わり、「感動した!」と言ってもらえたときのよろこびは何ものにもかえがたい。NHKのドラマ撮影では、スタッフが気を使ってくれたり、監督の「アクション!」の合図を一緒に考えてくれたりして、周囲の理解も少しずつ広まっているのを感じています。
ここまで東京、大阪でたくさんの経験を積んできたので、体調に気をつけながら、芸能活動に復帰できるようにがんばりたい。防災士として、沖縄に恩返しもしていきたい。中学生のとき、母にこう伝えたことがあります。
「耳が聞こえなくてよかった。もし普通にうまれていたら、みんなと出会うことも、いろんな経験することもなかった。耳が聞こえないおかげでたくさんの人との出会いがあって、普通の人にはできない経験をたくさんすることができた」
母は涙をこぼしていましたが、私は今も同じ気持ちです。
(了。前編から読む)
取材・文/中野裕子(ジャーナリスト)
