◆藤原、前田、髙田らと考えは“違っていた”

第一次UWFにおいて藤原は、ゴッチから受け継いだレスリング、関節技を追求する職人であり、その技術を第一次UWFのリングで遺憾なく発揮した。そして前田、髙田は自分なりの“格闘技としてのプロレス”という理想を模索していた。藤原、前田、髙田らに共通することは、第一次UWFの試合のために腕を磨き強くなろうとしていたことだ。プロレスラーとして当然のことだろう。

しかし、当時の佐山の考えは彼らと似ているようで違った。第一次UWFには自分のプロレスラーとしての才能やアイデアを提供することで協力するけれど、目指していたのは“理想のプロレス”ではなく、シューティングという新しい格闘技の確立だ。
格闘プロレスを追求する藤原たちと、第一次UWFのリングでシューティング・プロレスをやりながら、新たな格闘技を追求していた佐山。

普段は第一次UWF道場とスーパータイガージムという別々の場所を拠点とした中心選手たちが、似て非なるスタンスで同じリングに上がっていたのが第一次UWFだった。

◆新人の頃は道場がすべてだった

佐山聡がプロレスラーでありながら、「打・投・極」を合わせたまだ見ぬ新しい格闘技を夢見始めたのは、新日本の若手レスラーだった時代。合宿所の部屋の壁に「真の格闘技は、打撃に始まり、組み合い、投げ、関節技で終わる」と書いた色紙が貼られていたことは有名だ。

佐山が新日本でデビューしたのは、76年5月28日。伝説的なアントニオ猪木vsモハメド・アリが行われる1ヶ月前のことだった。猪木が一連の異種格闘技戦を行っていた時代の真っ只中で新人生活を送った佐山は、そこに強い影響を受けた。

新日本の道場では3年先輩の藤原と毎日のように“セメント”と呼ばれた寝技のスパーリングを繰り返した。しかし、新日本道場での猛練習だけでは飽き足らず、合同練習後、先輩たちには内緒で極真空手出身の“鬼の黒崎”こと黒崎健時が設立したキックボクシングの目白ジムにも通った。

「目白ジムに通ってた頃は、新日本の道場では朝10時から14時くらいまで練習をやって、ちゃんこを食べて少し寝たあと、目白ジムに行ってキックボクシングの練習をやってました。それで帰ってきたら、夜はまた新日本の道場でウエイトトレーニングをやっていたので、新人の頃は道場がすべてでしたね」

当時、新人レスラーがキックボクシングジムに通うというのはきわめて異例のこと。現在と違って当時のプロレスには、キックボクシング的な蹴りはほとんど使用されていなかった。それでも佐山が目白ジムに通ったのは、キックの技術を身につけること以外にも理由があった。