佐山聡が振り返る「タイガーマスクをやめた」顛末。興行優先、視聴率優先…「新日本が僕の理想からかけ離れていってしまった」
「目白ジムに通い始めた当初の目的は、自分が打撃を身につけるというよりも、打撃をかいくぐってタックルで入っていくことを考えていました。そういうチャンスがあるのかどうかを確かめたかったんですね。実際、キックボクシングとレスリングの間合いはまったく違うので、それを経験できたことはのちにすごく役立ちました」
総合格闘技は寝技と打撃の両方ができるだけでは完成しない。それらを合わせて総合独自の技術確立が必要となってくる。佐山は10代の頃からすでにそれを考え、研究していたのだ。
佐山の格闘技への探究心は、新日本の総帥・猪木も認めるところだった。佐山は猪木の付き人時代、理想の格闘技について語ることもあったという。
「猪木さんもすごく格闘技のことを考えている人だったので、僕の話をよく聞いてくれたんです。それでチャック・ウェプナーとの異種格闘技戦(77年10月25日、日本武道館)には、僕が試作していたオープンフィンガーグローブを使ってくれたりしました。
それである時、猪木さんに『新日本の中に、格闘技部門をつくったらどうですか?』みたいな話をしたら、しばらくしてアメリカのマーシャルアーツのルールブックみたいなものを持ってきたんですよ。それで『新日本ではいずれ格闘技をやる。お前を第1号選手にする』と言ってもらえたんです。若かった当時の僕はそう言ってもらえたことですっかりその気になって、有頂天になりましたね。猪木さんに認められたといううれしさもあって、そこからは『自分は格闘技の選手になるんだ』という考えだけでした。だからそこからは、格闘技のシミュレーションとして新日本で試合をやっていたようなところがありました」
◆「タイガーマスク」として白羽の矢が
猪木の「お前を格闘技の第1号選手にする」という発言以降、若き佐山の目標はプロレスのメインイベンターになることではなく、新日本所属の格闘技選手として活躍することに変わった。
しかし、それは猪木と佐山の間での個人的な口約束でしかなく、デビューから2年経った78年春、海外遠征の話が持ち上がる。デビュー2年で早くも海外に出るというのは、当時の新日本では異例のことで、佐山への期待の大きさがうかがえたが、その遠征先は皮肉にも格闘技とは真逆ともいえるショー的要素の強いルチャ・リブレの本場メキシコだった。
「メキシコ行きを聞いた時は、ショックでした。意味がわからなかった。もう自分はこれから格闘技戦をやるんだとばかり思っていたし、そういう練習ばかりしてましたから。でも、会社命令だから断れないし、『新日本のために頑張ろう』と、気持ちを切り替えてメキシコに行きました。ただし、向こうに行っても格闘技の練習は欠かさない、ということを自分に課していました。メキシコはボクシングが盛んだから、ジムに行くとたいていサンドバッグがあるんです。だから暇さえあれば、そのサンドバッグを使って蹴りの練習ばかりしていましたね」
