「自分らしさ」が商品になる社会で--SNS疲れ時代の話題書『デジタル社会の歩き方』を読んで私が考えたこと
リアルな発言と視点が注目されるZ世代ジャーナリスト・研究者、竹田ダニエルさんの新刊『デジタル社会の歩き方』が発売され、いま話題を集めています。
著者と同世代であり、デジタルクリエイター、研究者でもあるHUWEI(フーウェイ)さんが、Netflix「ボーイフレンド」シーズン2への参加をきっかけに実感したデジタル社会への強烈な違和感。『デジタル社会の歩き方』を通して、フーウェイさんが改めて考える、SNSとの距離の取り方とは?
「自分らしさ」が商品になる社会で
10代だった頃、インターネットは人とのつながりを生み出すものだった。しかし、気づけば、そのつながりに疲れ果てていた。かつて抱いていた希望も、いまとなっては懐かしい。
私と著者の竹田ダニエルは同世代であり、本書でいう「Z世代1.0」に当てはまる。コロナ禍や生成AIの急速な普及以前に、思春期の大半を過ごした世代である。本書は主にアメリカの事例とZ世代の視点から、テクノロジーや巨大プラットフォームの発達が資本主義経済や政治と結びつき、私たちの生活をどう変えてきたのかを描いている。読み進めるうちに、私はインターネットとともに歩んできた自分自身を振り返っていた。
私はアメリカの事情に詳しいわけではない。それでも、コロナ禍以降、生活のさまざまな場面でインターネットが不可欠になり、インフルエンサーを目指す若者の姿が目立つようになったことは、日本でも実感してきた。そもそも、日本で使われている主要なSNSの多くがアメリカ企業のものである以上、本書の議論は、日本に住む私たちとも無関係ではないだろう。
振り返ると、私が初めてSNSのアカウントを作ったのは、11歳の頃だった。タイやマレーシアに住む親戚と写真や近況を共有するために始めたFacebookである。その3年後には、現在も使っているInstagramのアカウントを作った。当時の目的は、身近な人間関係を広げることよりも、海外の友人や親族とつながることだったように思う。また、インターネットは、自分のセクシュアリティを理解する手がかりを得た場所でもあった。そこで得た情報を通じて、自分が男性同性愛者であることを認識し、自分と同じように生きる同世代の人々の存在を初めて知った。インターネットは、距離を越えて人とつながるだけでなく、身近な環境では見つけられなかった生き方に触れる場所でもあった。
著者が述べるように、スマートフォンが普及する以前をまだ覚えている「Z世代1.0」にとって、かつてのインターネットは、現実とは別の場所に「ログイン」するものだった。画面を開けば日常とは少し異なる世界があり、閉じれば元の生活に戻ることができた。少なくとも当時の私には、オンライン上の活動は、学校や仕事などとは区別された、遊びや趣味といった私的なものに感じられていた。
ところが、2020年に始まった新型コロナウイルスのパンデミックを契機に、授業や仕事、人との交流など、生活のさまざまな営みがオンラインへと移った。インターネットが社会インフラとしての役割をいっそう強めるなかで、オンラインでの活動も、社会生活を支える営みとして広く認められるようになった。コロナ禍は、オンラインで活動することに、より強い社会的正当性を与えたのだろう。同時に、感染防止のためにオンライン化が求められた状況は、企業にとっても、新たなビジネスを展開する機会となった。
こうしてインターネットが生活から切り離せなくなる一方で、本書が批判するのは、SNSの「カス化」である。正直にいって、私自身、SNSを開いて目にする情報の半分以上が「カス」なのではないかと感じることがある。それは、自分が知りたいことや、大切にしたい人の近況へたどり着く前に、大量の情報を浴びせられているという感覚である。かつて、メディアコンテンツの制作と流通には、出版社やテレビ局などの企業が大きな力をもっていた。インターネットは、個人にも制作や発信の機会を広げた。そこに、情報をめぐる自由の拡大を期待した人も多かっただろう。しかし、誰もが発信できるようになることと、その発信を支える仕組みが自由になることは、同じではなかった。個人が制作を担うようになっても、何が広く届き、どのように収益へ結びつくかは、プラットフォーム企業の仕組みに大きく左右される。制作の担い手や企業間の力関係は変わっても、私たちの表現や交流は、依然として資本主義経済のなかにある。
日常や人格まで商品になっていくことへの違和感
Instagram、YouTube、TikTokの短い動画は、一度見始めると、次々にスワイプしてしまう。生成AIによって、中身は希薄だが、一見すると出来栄えのよいコンテンツを作ることが容易になった。しかし、私の画面に流れてくるものには、どこかで見た表現をなぞり、見終えてもほとんど何も残らないと感じるものが少なくない。そして、気づけば数時間が過ぎている。一方、Xでは、憎悪や偏見をあおる投稿や、現実の複雑さを単純化した政治的主張が目につく。本書で取り上げられるチャペル・ローンの事例からも、発言の文脈や留保がそぎ落とされ、賛成か反対か、右派か左派かという二項対立へと回収される危うさが読み取れる。わかりやすい主張は拡散されやすいが、そのわかりやすさが、現実を理解する助けにはならない。ただ、私たちを疲れさせるのは、情報の質だけではない。私自身、Netflixのリアリティシリーズへの参加を機に、SNSのフォロワーが急増し、好意も批判も含む大量の反応が届くようになった。当時、最も負担に感じたのは、一つひとつの内容以上に、その量だった。好意的な言葉であっても、絶え間なく届けば、受け止めきれなくなる。頭の中が他者の反応で埋まり、自分の考えや感情に向き合う余地がなくなっていくように感じた。今ではその状況にも慣れ、特に気にならなくなっている。
他方で、フォロワーの増加は、PR案件などの仕事にもつながった。かつて批判的に見ていたインフルエンサーの役割を、皮肉にも自分自身が担うようになったのである。日常や人格まで商品になっていくことへの違和感はある。それでも、そこから収入や新たな機会を得ているのも事実だ。かつて人とつながるために始めたSNSは、いまでは私にとって、働く場所にもなっている。その立場になって見えてきたのは、「自分らしくいたい」という思いと、仕事として求められる振る舞いとの間で、発信者として折り合いをつけ続けることの難しさだった。少なくとも私にとって、ささやかな抵抗は、「インフルエンサー」という肩書を名乗らず、必要に応じてその役割だけを担うことにある。矛盾して聞こえるかもしれない。だが、その役割を引き受けることと、自分のすべてをその役割によって規定することの間には、違いがあると思う。
もっとも、その役割の外側に、他者の影響を受けない「本当の自分」があるとも言い切れない。本書で紹介されるジュディス・バトラーの議論を手がかりにすると、デジタル社会における「自分らしさ」も、他者から独立した内面の表出としては捉えられない。SNSで目にする「美しい」「格好いい」「幸せそう」「正しい」といった表象は、私たちの欲望や自己像を形づくる。同時に、私たちの投稿も、他者の欲望や規範を形づくる一部になる。私たちは、見る側であると同時に見られる側であり、消費者でありながら、自らも商品として扱われうる存在なのだ。
人に見られることが承認や収入、つながりに結びつく社会では、「私もインフルエンサーになりたい」と考えることは不思議ではない。むしろ、自分の発信を仕事や機会につなげなければ損をする、と感じる人もいるだろう。資本主義経済の仕組みのなかで生活し、より豊かな暮らしを求めるとき、インフルエンサーになることは、現実的な選択肢の一つとして浮かび上がる。
一方で、SNSから距離を置き、自分の日常を商品化せずに暮らせることも、経済的・社会的な余裕に支えられているのではないか。私自身はSNSを通じて仕事を得ているが、それでも「インフルエンサー」という肩書を名乗らず、その役割に自分のすべてを重ねずにいられるのは、ほかに居場所や活動の軸があるからかもしれない。そう考えると、SNSやインフルエンサーという役割との距離の取り方を、個人の意志や姿勢だけで説明することはできない。ほかに収入源があるか、自分を支える人間関係や活動の場があるかによっても、選べる関わり方は違ってくるのだろう。
私たちは、もう昔のインターネットへ戻ることはできない。必要なのは、デジタルかアナログか、インフルエンサーか否かという二択ではなく、自分がどのような仕組みのなかで見て、見られ、欲望しているのかを知ることだ。その自覚は、いつつながり、何を見せ、何を公開せずに手元に残すのかを、選び直す手がかりになる。ただし、その余地は誰にでも等しく与えられているわけではない。だからこそ、つながり方を個人で工夫するだけでなく、つながり続けることや、自分を売り込むことを求める社会の仕組みも問う必要がある。本書を読んで私が考えたのは、インターネットとの関係を選び直すことと、それを選べる条件を問い直すことは、切り離せないということだった。
