(※写真はイメージです/PIXTA)

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定年後は都会を離れ、自然の多い場所で暮らしたい--。現役時代からそんな計画を立てる人もいるでしょう。しかし、60代は自分たちの老後だけでなく、80代、90代になった親の暮らしについて考える時期とも重なります。夫婦だけなら実現できる計画でも、家族の状況によって見直しを迫られることがあります。

「来年には引っ越そう」10年近く温めてきた地方移住

浩二さん(仮名・66歳)と妻の由紀子さん(仮名・65歳)は、夫婦合わせて月約23万円の年金で暮らしています。

浩二さんは65歳まで再雇用で働き、退職時に受け取った退職金は約2,000万円。預貯金も約2,500万円あり、住宅ローンを完済した3LDKのマンションに住んでいました。

夫婦には、以前から楽しみにしていた計画がありました。地方への移住です。

きっかけは50代後半に旅行で訪れた海沿いの街でした。気候が比較的穏やかで、魚がおいしく、中心部から少し離れれば中古住宅も手の届く価格でした。

「仕事を辞めたら、こういうところで暮らすのもいいな」

浩二さんがそう話すと、由紀子さんも賛成しました。

それから何度か同じ地域を訪れ、退職後には不動産会社を回るようになりました。

候補にしたのは、駅から車で15分ほどの場所にある平屋の中古住宅。価格は1,600万円ほどで、小さな庭もあります。現在のマンションを売却すれば購入資金は十分に確保できる見込みでした。

「来年の春くらいには引っ越そうか」

そう話していた矢先、状況が変わりました。由紀子さんの母・文子さん(仮名・89歳)が、自宅で転んだのです。

幸い大きなけがには至りませんでしたが、それを境に、由紀子さんは母親の生活を以前より気にかけるようになりました。

文子さんは夫を亡くしたあとも一人暮らしを続けており、由紀子さんの自宅からは電車と徒歩で約30分。食事や着替えなどは自分でできますが、重い買い物や電球の交換、役所から届いた書類の確認などは、由紀子さんが手伝うことが増えていました。

「今すぐ介護が必要というわけじゃないの。でも、89歳でしょう。私たちが遠くへ行ったあとに何かあったらと思うと……」

移住候補地から母親の家までは、電車を乗り継いで片道3時間以上かかります。

内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、65歳以上で要支援・要介護認定を受けている割合は、75~84歳では要支援6.0%、要介護11.6%ですが、85歳以上になると要支援14.0%、要介護44.5%に上昇します。年齢が高くなるほど、生活上の支援や介護が必要になる可能性も高まります。

ある夜、由紀子さんが言いました。

「私、お母さんを置いて行けない」

浩二さんも、「予定通り行こう」とは言えませんでした。

「やっぱり今は行けない」89歳母を前に妻が出した答え

それでも、10年近く楽しみにしてきた計画です。浩二さんは当初、「何かあったら、そのとき戻ってくればいいんじゃないか」と提案しました。

由紀子さんも迷いました。

母親のために自分たちの老後を諦めることが正しいのか。それとも、89歳の母親を残して遠方へ移ることのほうが後悔するのか。すぐには答えが出ませんでした。

数週間後、由紀子さんは母親に移住について話しました。

「私のことなら気にしなくていいよ。せっかく2人で決めたんだから」

文子さんはそう答えました。その言葉を聞いて、かえって由紀子さんの迷いは大きくなったといいます。

数日後、母親の家を訪ねた帰り道、由紀子さんは浩二さんに電話をしました。

「やっぱり今は行けない。何年後になるか分からないけど、お母さんが一人でいるうちは近くにいたい」

浩二さんも「分かった。家を買うのはやめよう」と答えました。

夫婦は不動産会社に連絡し、物件探しを中止しました。現在のマンションも売却せず、そのまま暮らすことにしました。

「正直、残念でしたよ。退職したら海の近くで暮らすって、ずっと楽しみにしていましたから」

浩二さんはそう話します。

一方で、「あと何年待てば移住できるのか」と考えることはやめたといいます。

その代わり、夫婦は年に数回、以前移住を考えていた街へ旅行することにしました。1週間ほど滞在することもあります。

由紀子さんも、母親の生活すべてを一人で引き受けているわけではありません。必要に応じて兄弟とも連絡を取り、今後支援が必要になった場合に備えて、地域包括支援センターについても調べています。

「お母さんのために自分の人生を全部諦めた、とは思いたくないんです。ただ、今の私には、遠くに引っ越して何かあるたびに心配する生活より、ここにいるほうが合っている。それだけなんだと思います」

親が高齢になれば、夫婦自身が元気でも、住む場所を自由に決められないことがあります。一方で、親のために子どもが自分たちの生活をすべて犠牲にすることが唯一の答えでもありません。

地方移住をするのか、今の場所に残るのか。介護サービスやほかの家族の協力をどこまで利用するのか。親と子の距離や家族構成によって、選べる方法は異なります。老後の計画を立てる際には、自分たちの資金や希望だけでなく、年齢を重ねていく親との距離をどうするのかも、あらかじめ考えておく必要があるのかもしれません。