9月6日にドイツ東部のザクセン・アンハルト州で行われる州議会選挙で、「ドイツのための選択(AfD)」という政党が掲げる公約が波紋を広げていると、読売新聞が報じています。なかでも障害児教育の見直しが社会に衝撃を与えているのだそう。その主張は、「障害児と健常児が同じ教室で学ぶという実験は失敗した。障害児は授業の進行を妨げる」というもの。その上で、「ドイツのための選択」は特別支援学校の強化を選挙公約に盛り込んでいるのです。

 これを読めば、今回の星野真里の主張に対するネット上での「正論」と呼ばれる論理展開と、驚くほど似通っていることがわかるはずです。

 もちろん、日本のネット世論と「ドイツのための選択」の主張を全く同じだと言うことはできません。しかし、障害児と共に学ぶ理想よりも、現実的な負担であることを懸念している点ではかなり近い考えであることは確かです。

 つまり、今年の『24時間テレビ』は、ひょっとすると日本国内で眠っていた障害児との共生をめぐる厳しい本音を可視化させてしまったかもしれないのです。

◆冷徹で突き放した意見が支持される理由は?

 もちろん、そのことに対して星野真里の責任は何もありません。彼女は自らの置かれた立場から、権利の正当性を主張しているだけであって、賛成や反対はあるにせよ、そのことへの議論自体は止められるべきではありません。

 しかしながら、本来ならば意見の相違を超えて、まずは彼女に対する共感や心情をおもんばかるべき場面で、こうした冷徹で突き放した客観性を重視するような言動が良識だとして支持されている状況は、一体どこから生まれたのでしょうか?

 そこで考えたいのが、『24時間テレビ』が扱ってきた「障害」という概念です。今回SNSで番組への疑問として問われていたのが、「この番組はどうにもならない絶望を感じさせるような障害者を扱ったことはない」というものでした。たとえば、ダウン症の子供たちがオリエンタルラジオとPERFECT HUMANを踊ったりする出し物は見せても、親族に身体的ダメージが加わるほどの強い力で暴れてしまう障害児のことは取り上げない、と。

 つまり、『24時間テレビ』が扱ってきた障害は、意図するとしないとに関わらず、結果として見せたい障害ばかりになってしまい、さらに言えばテレビで「感動の物語」として提示しやすい障害に偏っていたのではないでしょうか。コンテンツとして放映できるリミットを超えないものをより分け、番組の想定するプロットの出演者として配置してきたというわけです。