【風、薫る】夫を失った失意の「上坂樹里」直美はどうなる? 歴史上のモデルに見える看護婦のパイオニアの引退への道
大家直美とモデルの鈴木雅はかなり違うがそれでも
陸軍軍曹の小川吾郎(甲斐翔真)と結婚し、ひとつの幸せをつかんだはずだった大家直美(上坂樹里)。NHK連続テレビ小説『風、薫る』で看護婦の道を切り開く、2人のヒロインのうちの1人だが、第22週「明るい未来」(8月24日~28日放送)で、悲劇に見舞われた。
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妊娠したことがわかったところまではよかったが、危惧していた小川の出征が決まってしまう。お腹の子が男の子でも女の子でも「明」と名づける、と決めると、小川は戦地に赴いた。直美は夫の生還を信じながら、無事に出産を終え、一ノ瀬家に身をよせてりん(見上愛)らの助けを得ながら育児に精を出していたが、耳にせざるをえなかったのは悲しい知らせだった。小川が戦死したという報が届けられたのである。

第23週「歩々清風」(8月31日~9月4日放送)では、直美が悲しみを乗り越え、子育てと仕事に懸命に向き合う様子が描かれる。では、その後の直美は、子育てと看護婦の仕事を両立しながら、ひたすら懸命に突き進んでいくのだろうか。直美の近未来は、彼女のモデルになった鈴木雅の足跡をたどることで、ある程度、読めてくると思う。
直美は歴史上の鈴木雅からは、生まれや境遇がかなり変更されている。直美は生まれて間もなく、名前もないまま教会の前に捨てられ、牧師らに育てられた。両親がだれなのかもわからない、いわゆるみなしごだったが、のちに客と足抜けした女郎が産み落とした子だとわかり、ドラマのなかで実母と再会した。一方、鈴木雅は幕臣の娘で、明治維新に翻弄されたとはいえ、みなしごとは比較にならないほど恵まれた境遇で育った。
だが、それでも脚本家は、鈴木雅を土台にして「大家直美」を創造している。鈴木雅の人生には、直美を読み解くためのヒントがあふれている。
軍人の夫を失って母子が残される、という共通点
いま述べた直美の悲劇も、人生における順番こそ違うが、雅の悲劇と重なるところがある。雅は看護婦になる前に軍人と結婚していたのである。
父親の加藤信盛は、明治政府が「学制」を公布すると、娘の雅に教育を受けさせると決めて、彼女を横浜の日本婦女英学校(現・横浜共立学園)に入れた。これからは女性にも教育が必要だという、当時としては先進的な考え方の人物だったようだ。しかし、改称した共立女学校を修了する前に、縁談が持ち込まれた。相手は陸軍少佐の鈴木良文。しかし、祝言を上げる直前に、事情が変わった。良文が西南戦争に従軍したのである。
結局、戦後に祝言は上げられたが、良文は大腿部に被弾し、負傷していた。それも銃弾は太ももの奥深くまで達し、外科的に摘出することができない状態だったという。そのうえ良文は仙台の鎮台に所属していたので、夫婦が一緒に暮らせる期間は、1年のうちでもかぎられていた。そんななかでも女の子、続いて男の子と、2人の子供に恵まれたが、結婚して5年ほど経った明治16年(1883)、夫は大腿部の炎症が悪化して仙台の病院に入院。すぐに駆けつけたい雅だったが、子供たちが熱を出すなどして足踏みを強いられているうちに、逝去したという知らせを東京で受けることになった。
歴史上の鈴木雅は、トレインドナース(正規に訓練された看護婦)になる前に、軍人の夫を戦争での負傷が原因で失い、死に目に会えず、母子が残された。ドラマの大家直美は、トレインドナースとして活躍中に、軍人の夫を戦場で亡くし、死に目に会えず、やはり母子が残された。結局、脚本家は直美に、時期こそ違っても、モデルである雅とほぼ同じ経験をさせている。
力を入れていた派出看護婦会が内部分裂
さて、現在、『風、薫る』での大家直美は、病院に来ることができない人や貧しい人のもとに看護婦が出向いて看護をする派出看護婦会をつくり、そこに一時は新潟に行っていたりんも引き入れて、一緒に活動している。だが、この派出看護の世界、歴史上の鈴木雅のもとでは、次第に種々の問題に見舞われるようになっていった。
派出看護は次第に市民権を得て、ほかにも派出看護婦会が数多く立ち上がった。そこで雅は、一ノ瀬りんのモデルである大関和と一緒に、ほかの派出看護婦会に参加を呼びかけ、いわば業界団体である看護婦人矯風会を結成した。そして、看護関連の情報を発信したり、派出看護婦たちの交流を図ったりしていたのだが、次第にこの会に向けた誹謗中傷などが頻発するようになっていった。
看護婦人矯風会のなかで中心的な位置づけの団体といえば、当然ながら、雅と和の東京看護婦会だった。その規模はある時期まで順調に拡大していたが、次第に不協和音が生じることが多くなっていった。それは和と雅の看護婦としての姿勢の差によるものだった。和はドラマのりんのように、看護婦としての技能を大事にしながらも、慈善的な意識などの精神性を重視した。一方、雅はあくまでも技能で対処すべきだという姿勢だった。とはいえ和と雅の2人は信頼関係で結ばれ、たがいの違いを尊重し合っていたのだが、周囲は精神性を重んじる「大関派」と技能を重んじる「反大関派」に割れてしまったのである。
そんなとき和に悲劇が見舞った。母の背中を見て看護婦をめざしていた娘の心が、もう少しで看護婦の実習が終わるというタイミングで結核に罹患し、それからわずか4カ月で急死してしまう。明治33年(1900)のことだった。東京看護婦会の内部分裂に嫌気がさしていたところに、簡単には受け入れられない娘の死と向き合うことになった和は、まず休職する。続いて雅に辞表を提出し、箱根にこもってしまった。
パイオニアに対するあまりの屈辱に
しかし、ある意味、雅のほうが上手だった。翌年、雅からの至急帰るようにという電報を受けとった和は、東京に雅を訪ねると、前年に渡した辞表を返され、自分は引退するから東京看護婦会を継ぐように、と告げられた。しかも、雅は取りつく島もなく、和は雅の要請どおりに会を引き継ぐしかなかった。
いったいなぜ雅は突然、引退しようと決意したのだろうか。ひとつは息子の良一の病気だといわれる。学習院初等学科から独逸学協会学校中等部(現・独協中学、高校)に進んでいた良一は、性質が繊細であるがゆえに胃を悪くして中退し、自宅で静養していた。それになるべく付き添いたいというのである。
だが、雅がもう看護婦の仕事はできないと決断した最大の理由は、前年に東京府が発布した「看護規則」にあったようだ。この規則が取締りの対象とするのは派出看護婦で、病院勤務の看護婦は除外されていた。しかも発令の理由書には、あまりに屈辱的な表現が並んでいた。「各営業者間に私設せる所謂看護婦会または看護婦養成所と称する場所に於ては、一般に速成を主とし、極めて不完全なる要請をなし、その大部分は殆ど看護婦の仮名を借るものたるに過ぎず」「懶惰放恣にして半ば売淫婦たるが如く風紀を紊る者」。派出看護婦を貶めるこんな表現が、いくつも羅列されていたのである。
看護婦の、そして派出看護婦のパイオニアとして道を切り開き、その質の向上をめざして少しずつ実現し、強い自負をいだいていた雅にとって、これ以上の屈辱はなかったと思われる。実際、これに絶望して、看護婦の道を歩むことをやめた、と考える向きが多い。このとき雅は、まだ42歳にすぎなかった。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
