ソ連兵に凌辱されそうになったら自決を…終戦後、満洲で母親や女性たちが耳の後ろに貼り付けていた青酸カリ

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2025年7月、ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』(松原文枝監督)が上映され、話題を集めました。第99回キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門第2位、第29回女性文化賞(監督の松原文枝氏)、第31回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞などを授賞し、今もロングラン上映されています。

戦時下、国策として満洲に渡った開拓団がいくつもありました。しかし、戦後直後からソ連軍が侵攻。日本軍は我先にと立ち去り、岐阜県の黒川開拓団は、日本に帰国するためにやむを得ずソ連軍に助けを求めることに。しかし、ソ連軍はその見返りとして、18歳以上の女性たちに性接待を要求。その意味もわからなかった女性たちは家族や仲間を守るために、日本に帰国するために、ソ連兵の相手として差し出されたのです。その後、開拓団は帰国。ところが、彼女たちを待ち受けていたのは、差別や誹謗中傷だったのです……。

過去のソ連軍の話だけではなく、戦争では武器による殺戮だけでなく、性暴力も頻発します。これは今起きている戦争でも続いている現実でもあります。

今回お話を伺った満洲生まれの現在90歳の岡本三樹子さんの周囲でも女性たちへの危機が迫っていました。前編(第18回)『戦争が終わっても新たな恐怖が……!「女は外に出るな!」ソ連軍侵攻で満洲生まれの9歳少女の日常が激変』に引き続き、ソ連軍侵攻後の満洲とやっとの思いで日本に帰国するまでの様子をお伝えします。

この企画は、『わたくし96歳#戦争反対』の著者であり、「戦争反対」「核兵器廃絶」のメッセージをSNSやデモを通して伝える森田富美子さんに敬意を表し、『わたくし96歳#戦争反対』オマージュ企画として、戦争当時、未成年だった人たちの生の声を集めた『私が子どもだったころ――戦争の時代』として、不定期で掲載しています。

※体験談をお話しいただいた方たちの個人情報を守る意味から、本名ではなく仮名で表記をしています。場所、内容に関してはお話いただいた内容に基づいています。また、原稿内に、かつて旧満洲(中国東北部)に住む満洲民族を示す「満人」という言葉が出てきますが、戦時下の体験を直接伺う意図から、本人のお話のまま記載しています。

【プロフィール】  

岡本三樹子さん(仮名)  

1936年(昭和11年)生まれ。90歳(終戦時9歳)  

家族構成 父、母、本人、妹。父は満州の商事会社勤務満州で生まれる。敗戦は、空襲がひどくなった新京から避難するために一家で乗った屋根のない無蓋貨車の中で知らされた。

耳の後ろに貼った自決用の青酸カリ

このころ満洲にいた私の周りにいた女性たちはみな髪を短くしてズボンを穿き、男装をしていました。そして「ソ連兵が来た」とわかると押し入れの天井板を押し上げ、天井裏に隠れるように言われていました。私は当時、まだ子どもだったこともあって、母や社宅でかわいがってくれたお姉さんたちが、どうして私や妹を置いて隠れてしまうのかわかりませんでした。今とは違って性教育など一切なかった時代。ソ連兵らに女性が暴行され、強姦されるかもしれない……なんて思いつくわけもありません。それよりも母を含めた女性たちが急いで隠れ、自分が残されることに、理不尽というか、不安で恐ろしく思っていました。

でも、今思えば、母や年頃の女性たちは、私が感じた以上の不安や命に関わる恐ろしさを味わっていたのです。後年になって、母がそのころ青酸カリを包んだ小さな袋を耳の後ろに常に貼りつけて暮らしていたことを知りました。万が一、ソ連兵に襲われて凌辱されそうになったときは、その薬を口に入れて自決する……。そこまで覚悟して暮らしていたのです。

ある日のこと、私は高熱を出し氷枕をあてて寝込んでいました。物音に気がついて目を開けると、ソ連兵が2人、部屋に入ってくるところでした。そこまでは憶えていたのですが、熱でその後の記憶が定かではありませんでした。しばらく経ってから2つ下の妹とこのときの話になり、彼女はこの日の出来事をはっきりと憶えていて教えてくれたのです。

妹はソ連兵が家に近づいてきたとき、一緒にいた社宅のお姉さんと「あっ、ロスケが来たっ!」と急いで裏口から逃げて別部屋の天井裏に隠れたそうです。妹は私が寝込んでいるのが心配になり、天井裏から抜け出して戻ってきました。ソ連兵はドア生活のため障子を横に引いて開けることを知らず、障子の桟を壊してその穴をくぐって部屋に入ってきたのです。私も寝ながら物音は聞いていました。ソ連兵2人は、部屋中を探し回り、箪笥や押し入れを開けて物色していました。ひとりがアコーディオンを見つけてデタラメに鳴らし、なぜか大喜びしていました。

ここからは妹の証言ですが、彼らは部屋を探し回るのをやめてもう一度私のそばに来てにっこりと笑い、キャラメルを2粒、枕元に置いて出ていったそうです。妹は怖いのを我慢して、私の布団のそばにずっと座っていたそうです。ソ連兵は私の布団の中に手を入れて胸のあたりをさわり、「これは子どもだ」と確認した後で帰っていったんだとか。私の年齢がもう少し上だったら、あのときどうなっていたのでしょうか、考えるだけでも恐ろしいです……。

予防注射に写真撮影、名札作りと帰国の準備

ソ連兵の恐怖に怯えながらも、内地に帰国するために、いろいろな準備が始まっていました。中でもよく覚えているのが、予防注射です。コレラ、チフス、赤痢など何度も予防注射を受けました。道路に長い行列を組んで順番を待ち、先頭に行くと両側に注射をする人がいて、みんな両手を腰に当てて前に進みました。一度に2本の注射を受けるのです。特別に痛いのがコレラでした。

大きな名札をつけることになり、それには赤いひし形のマークがついていました。妹がこのマークについて聞くと「日の丸が四方から押されてこんなになったんだよ」と父は答えました。これが敗戦後の日本人の印だったようです。

引き揚げ時、隊名の下に名前と帰国後の行き先の県名を書いて、私たちは毎日その名札を胸につけていました。私は帰国後、母の実家のある「宮城県」に行くことになりました。母は帯芯で肩掛けカバンやリュックサックを、人数分の布団も作りました。外側は母の着物で、中はセーターをほどいた毛糸です。帰国後に利用できるように、と考えたものでした。その布団を巻き付けたリュックサックを背負って荷物を持ち、みんなで歩く予行演習もしました。こうして必要最小限の持ち物を確認し、いつ出発になってもよいように常備していました。

引き揚げ直前、私を「預かる」と言った中国人

帰国準備を進めているころ、安全な時間帯を見計らって母と近くの食料品店に買い物に行きました。引っ越してきてからずっと利用していたなじみの店です。

するとそこの中国人の肉屋さんが「奥さん、娘さん預かってあげるから置いていきなさい」と唐突に言いました。「こんなに小さい子どもたちを今連れて行ったら、死んでしまうよ。日本の国も大変だろうし、日本人はまた必ず来られるから、それまで地下室で隠してあげるよ」と熱心に言うのです。私は、本当に肉屋さんに預けられて地下室で暮らすことになるのかとドキドキしていました。けれど母は「死ぬときは一家で一緒」と笑って答えたのです。私は心から安心しました。

でも、当時はさまざまな事情で一緒に帰国できない家族もたくさんいたのだと思います。戦後、中国に残留された方々のニュースを見るたびに、切なく悲しい気持ちになりました。私はたまたま帰国できだけなのかもしれない、運良く今生きていられるのだと思うことがあります。

そして、ようやく引き揚げの日が来ました。家を出るとき、とてもつらかったです。机も、本も、人形も、茶碗も……。置いていくものとの別れがつらくて、涙が止まりませんでした。私たちが家を出た直後、外で待っていた大勢の人が家の中に駆け込んでいくのがわかりました。置いてきた荷物を強奪するためでしょう。でも私は家の方を絶対に見ることなく、前を向いて歩き続けました。

以前に避難しようとしたときと同じく、天井のない箱のような粗末な貨物車(無蓋車)で移動しました。リュックを背負って港へと向かいました。軍が使っていた馬小屋が宿泊場所になっていて、床にひしめき合って座り、リュックを抱えるようにして眠りました。ご飯はコーリャン(カタキビ)を炊いたもので、ピンク色できれいでしたがおいしくありませんでした。トイレはむしろをぶら下げただけのひどいものでしたし、持ち物を何回も調べられ、D.D.T.(※1)を振りかけられて全身真っ白になり、検便に注射と情けないような日々が続きました。それでも大人たちはやっと日本へ帰れるということで、明るさを取り戻していました。

馬小屋から軽くなった荷物を持って、長時間歩いて港に着くと私たちが乗る船が待っていました。またD.D.T.で全身真っ白になって乗船し、出航しました。私は船の窓から離れていく陸を眺めながら、いつの間にか『ラバウル小唄』の歌詞を変えて、「さーらば満州よ! また来るまーでーはー」と心の中で歌っていました。涙が自然と溢れ止まりませんでした。

※1: 1930年代に開発された有機塩素系殺虫剤の「ジクロロジフェニルトリクロロエタン」の略称。安価で強力な殺虫力を持ち、マラリアなどの感染症媒介生物の駆除に広く使われました。生体蓄積性や環境への深刻な影響が問題視され、現在は製造・使用が禁止されている。

【前編(第18回)】戦争が終わっても新たな恐怖が……!「女は外に出るな!」ソ連軍侵攻で満洲生まれの9歳少女の日常が激変