国歌が流れると幼稚園児が大笑い…習近平が「中国化」を急ぐほど香港・台湾の若者が「中国離れ」を起こす皮肉
※本稿は、李虎男『中国は覇権を握るのか』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
■アヘン戦争から始まった「屈辱の世紀」
1842年の南京条約によって香港島がイギリスに割譲されて以来、中国は「屈辱の世紀」と呼ばれる苦難の時代を経験した。この歴史的記憶は、現代中国の対香港・対台湾政策の根底にある。
特に1997年の香港返還は、中国政府にとって過去の屈辱を晴らし、国家の統一と復興を実現するための象徴的な勝利であった。しかし、その後の急速な「中国化」政策は、香港と台湾の若い世代に深刻なアイデンティティの危機と経済的な絶望をもたらし、結果として中国への反発を強めるという逆説的な事態を招いている。
1842年8月29日、中国とイギリスの間で「南京条約」が締結された。この条約は、アヘン戦争に敗北した清朝が香港島をイギリスに割譲することを定めたものであり、中国近代史における屈辱の出発点とされている。
この日を境に、中国は「屈辱の世紀」と呼ばれる苦難の時代に突入し、以後も列強による侵略や不平等条約が相次ぐことになる。1860年には九龍地域の一部がイギリスの植民地となり、さらに1898年には新界地域が99年間にわたって租借されることになった。これらの一連の出来事は、中国人の間で「国恥」として長く記憶されることになった。
■国家統一の「ラストピース」への執念
新界地域は香港全体の約80%の面積を占め、その租借期限が1997年と定められていた。返還をめぐる交渉では、中国の最高指導者であった小平が強硬な姿勢を貫き、イギリス側も最終的に、新界だけでなく九龍半島と香港島も含めた全面返還に合意することとなった。この合意により、1997年7月1日に香港が正式に中国に返還されると、中国国内では150年ぶりに失地を回復したという象徴的な勝利として受け止められた。

その20年後の2017年、香港返還を記念する式典において、習近平は「香港は祖国の懐に戻り、百年の屈辱を洗い流した」と述べ、香港返還が中国にとっていかに重要な意味を持つかを強調した。中国政府にとって、香港の返還は単なる領土の回復ではなく、過去の屈辱を清算し、国家の統一と復興を実現するための第一歩であったのである。
こうした歴史的経緯を踏まえ、中国政府は次なる目標として台湾との統一を掲げている。中国憲法には「台湾は中華人民共和国の神聖なる領土の一部であり、祖国統一の完成はすべての中華民族の神聖なる責務である」と明記されている。
香港とマカオが返還された現在、国家統一の「最後の一片」として残された台湾に対して、中国人の抱く感情には、歴史的屈辱を完全に乗り越えたいという強い願望が込められている。
■時間とカネを駆使した「香港の中国化」
香港返還以後、中国政府は「一国二制度」の枠組みを維持しつつも、香港人に対する中国人としてのアイデンティティの強化を目指してきた。
2004年の国慶節には、初めて香港のテレビ局で中国国歌が生放送され、普通語(標準中国語)教育や中国史教育などを通じた「愛国主義教育」が推進された。こうした政策は、経済的自由を認めながらも、国家への帰属意識を高めることを目的としていた。
この背後には、経済的利益を通じて政治的統合を実現しようとする戦略がある。すなわち、豊かさや繁栄を享受することで、香港や台湾の住民が自発的に中国との統一を受け入れるようになるという「経済統合先行論」である。
この考え方は、小平以来の中国指導部の現実的かつ漸進的な統一戦略として重視されてきた。香港の事例は、中国政府が経済力と時間を武器に、統一を段階的に進めようとする姿勢を象徴している。
■中国国歌を聴いて大爆笑する子供たち
中国からの多大なる努力にもかかわらず、期待していた効果は得られず、むしろ心理的葛藤が激化しているのが現状である。2010年から香港の小学生に中国人としてのアイデンティティ意識を強制的に植えつける「愛国教育」が実施されたが、香港人からは「洗脳教育」として激しい反発を受け、結局中国は撤回せざるを得なかった。
幼稚園で中国国歌が流れると子供たちが見知らぬ顔で大笑いするという光景は、香港人のアイデンティティがイギリス植民地時代に形成されたものであり、中国国歌を歌い国旗の前で敬礼することに慣れていない現実、香港人の文化的・心理的な距離感を如実に表している。

それにもかかわらず、香港における中国化は急速なスピードで進行している。中国との人的交流が活発化し、香港を訪れる中国人は返還直後の約5倍まで急増した。経済関係も急速に統合されつつあり、2003年には自由貿易協定である「経済緊密化協定(CEPA)」が締結され、9回にわたる補完協議を通じて経済協力の範囲が拡大された。
言語面での変化も著しい。香港には「両文三語」という概念があり、中国語と英語の二つの文章、英語・広東語・普通語の三つの言語を指している。
■止まらない台湾の若者の「中国離れ」
80%以上の香港人は今でも広東語を使用しているが、普通語の影響力は飛躍的に拡大している。香港返還前に普通語を使用すると中国人であることを理由に完全に無視されていたのが、現在では中国企業との取引や就職のために普通語を学ぶ香港人が増加している。
2015年に公開された映画『十年(Ten Years)』では、中国化しつつある10年後の香港の未来を暗いシナリオで描き、広東語の使用が禁止され普通語が公用語となった香港でタクシー運転手が直面する苦境を描いている。香港人の将来への不安と恐怖を象徴的に表現した作品として大きな反響を呼んだ。

香港人のアイデンティティに関する調査結果も興味深い変化を示している。2017年の香港返還20周年を控えた香港大学世論調査機関の調査によると、「中国人である」と思う人は20.9%、「香港人である」と思う人は37.3%となっている。「中国の香港人」と思う人が26%、「香港の中国人」と思う人は14%で、混合アイデンティティを選んだ人が40%であった。
2010年以降、香港人というアイデンティティの割合は40%前後を維持しており、これは香港人の反中感情の高まりを意味している。
■中国との統一を望む台湾人は1割だけ
台湾においても同様の現象が観察される。台湾で頻繁に行われる世論調査によると、統一を望む割合は減少傾向にある。2018年12月の台湾国立政治大学選挙研究センターとアメリカのデューク大学アジア太平洋安全研究センターの共同調査では、「統一を望む」比率が12.1%、「現状維持」70%、「独立」24.1%となっている。
1991年には「統一を望む」比率が45.3%だったのが、2016年には14.9%まで減少している。この数字は台湾人の意識が劇的に変化したことを物語っている。
台湾人のアイデンティティも大きく変化している。2016年12月の国立政治大学選挙研究センターの調査によると、自分を「台湾人だ」と思う人が58.2%、「台湾人であると同時に中国人でもある」と思う人が34.3%、「中国人だ」と思う人は3.4%となっている。
自分が「台湾人だ」と思う人は1991年の46.4%から2017年には60.6%に増加し、一方で「中国人だ」と思う人は1991年の25.5%から2002年には9.2%に激減し、2010年以降は常に3~4%を維持している。
このようなアイデンティティの変化は、特に若い世代において顕著に表れている。彼らは中国化の過程を直接体験し、その中で自らの文化的ルーツと将来への不安を同時に感じているのである。この世代は、中国との統合が進むほど、自分たちの独自性が失われていくという危機感を抱いている。
■親中派だけが儲かる残酷な格差社会
中国政府が香港への関与政策を深化させるほど、香港の若者からの反中感情が急速に拡大している。香港独立を主張し、過激な行動を取る人々や集団も出現しており、香港独立を支持する若者の比率が最も高く、自分自身を「香港人である」とする認識も他の年齢層に比べて高い水準を維持している。この現象の背景には深刻な経済的要因が大きく影響している。
香港は中国への返還後、国内総生産(GDP)は2倍近く成長したが、社会の二極化現象がますます深刻化した。2016年の香港のジニ係数は46年ぶりに0.539という歴史的な最高値を記録した。
ジニ係数とは所得の格差が全くない状態を0、一人がすべての所得を独占している状態を1とした際の数値であり、一般的には0.5を超えるとかなり格差の大きい社会と見なされる。
例えば日本の2023年のジニ係数0.3825(税や社会保障による再分配の前は0.5855)と比較すると、香港の所得格差がいかに深刻か理解できる。中国との経済統合により親中企業や資本家は巨大な利益を得ているが、一般市民は完全に置き去りにされている状況なのだ。

■香港は若者にとって夢も希望もない
特に深刻なのは不動産価格の異常な高騰である。北京オリンピック以後その傾向がさらに加速し、2018年には4倍以上まで上昇し、現在も15%のペースで上昇している。
九龍半島の11坪のアパートの価格が8000万円以上にまで上昇し、この地域の小型アパートは返還後から現在まで112.4%上昇した。若者が自分のアパートを購入することはほぼ不可能になっている。
若者の失業率の高さも中国と同様、香港の深刻な問題だ。2020年には大卒者が求める給料は最低金額を記録し、国内での就職可能性もほぼ絶望的になった。教育水準が高い若者であっても安定した職に就くことが困難になり、将来への希望を失う者が増加している。
香港の若者は不動産価格の高騰や就職難といった厳しい生活環境に対して、その最大の原因が中国にあると考えている。中国資本と大量の中国人が香港に押し寄せ、不動産価格を高騰させ、仕事を奪っていると認識しているのである。香港の若者にとって「香港の中国化」は就職難や失業を意味するだけでなく、中国特需からの疎外を意味している。
■大卒初任給はたった8万円
台湾においても若者世代の経済的困窮は深刻である。「22K世代」と呼ばれる若者世代の動向が特に注目される。これは大卒の初任給が2万2000台湾ドル(約8万円)であることに由来する名称で、台湾の若者世代の苦難な現実生活を反映している。
高等教育を受けても低賃金に甘んじなければならない現実は、若者の将来への不安を増大させている。台湾の若者世代は2000年以降の家計実質所得減少と不動産価格高騰という厳しい現実に直面している。
馬英九(ばえいきゅう)前政権が景気対策として財産税や所得税を引き下げ、不動産贈与税と相続税を50%から10%まで引き下げたことで、中国などから稼いだ人々が不動産に投資し、価格が高騰した。若者世代にとって両岸の経済交流は恩恵をもたらすどころか、被害を与える要因となっているのである。

■不信と反発が渦巻く「香港返還」の実態
これらの経済的困窮は、単なる一時的な景気低迷ではなく、構造的な問題として若者世代を直撃している。

彼らは親世代が享受した経済成長の恩恵を受けることができず、むしろ中国との経済統合が進むほど、自分たちの生活条件が悪化していくという現実を体験している。これが、経済統合に対する根本的な不信と反発を生み出している要因となっている。
特に注目すべきは、この経済的困窮が高学歴の若者世代を直撃していることである。大学教育を受けても安定した職に就けない、住宅を購入できない、将来への展望を描けないという現実が、若者世代の政治的意識の急進化を促している。
彼らにとって中国との統合は、機会の拡大ではなく、むしろ機会の剥奪として認識されているのである。
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李 虎男(り・こうなん)
前延辺大学科学技術学院教授
1993年、中国・延辺大学朝鮮言語文学科を卒業後に来日。上智大学大学院文学研究科、中央大学大学院法学研究科を経て、2005年に中央大学より法学博士号を取得。韓国・西江大学、慶南大学極東問題研究所客員研究員を歴任し、延辺大学科学技術学院教授、創価大学法学部客員教授を務めた。主な著作に『韓国歴代政権の統一政策変遷史』(共訳、2011年)『朝鮮民族の歴史』(共著、2016年)、などがある。
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(前延辺大学科学技術学院教授 李 虎男)
