公卿のボイコット、道長に祟り、怪文書…どこまでが忠実?【光る君へ】史実を基に11月3日放送を振り返り
三条天皇(木村達成)との権力争いに疲れて病に倒れ、独り宇治へ療養にきた藤原道長(柄本佑)と、その道長を見舞うまひろ(藤式部。吉高由里子)。
「死にたいなら、一緒に死にましょうか(意訳)」
それは嫌だと生きることを約束した道長。この経験をキッカケとして、一度は終わらせた『源氏物語』の続編(宇治十帖など)を描き始めたまひろ……再びそれぞれの場所で共に生きていく誓いを立てた二人でした。
NHK大河ドラマ「光る君へ」第42回は「川辺の誓い」。今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!
第42回放送「川辺の誓い」関連略年表
「一緒に流されてみません?」このやりとりが浮舟(源氏物語ヒロインの一人)が入水したエピソード(後に助かる)のヒントになったか(イメージ)
長和元年(1012年)まひろ43歳/道長47歳
2月14日 藤原妍子が中宮となる。4月27日 藤原娍子が皇后となる。公卿たちがボイコット。5月23日 道長が比叡山に馬で登って石を投げられる。5月30日 道長が重病を患う。6月4日 道長が辞表を提出する(1回目)6月5日 道長の辞表が返却される。6月8日 道長が再度辞表を提出する(2回目)6月20日 道長の重病を喜ぶ者を論う怪文書が出回る7月8日 道長の辞表が再度返却される。今回は道長と三条天皇の政争(こちらは史実に基づく)、そしてまひろとの誓い(こちらは創作)が描かれました。
それにしても長年道長に寄り添い続け、それぞれ6人も子供をもうけていながら、何の愛情も注がれない(少なくともそうとしか見えない)源倫子(黒木華)と源明子(瀧内公美)が本当に不憫でなりません。
(いつか二人がタッグを組んで、ソウルメイトらに逆襲していただきたい)
ちなみに藤原賢子(南沙良)と双寿丸(伊藤健太郎)のエピソードは完全に創作なので、あまり気にしないでください。キャラとしては好きなので、箸休め的に楽しませていただいています。
公卿たちがボイコット!寂しい立后の儀
道長の圧力に苦しむ日々…三条天皇の皇后・藤原娍子(演:朝倉あき)とはどんな女性だったのか?【光る君へ】
道長の嫌がらせにより、藤原娍子の立后(りっこう。皇后に立てられること)をほとんどの公卿たちがボイコットしてしまいます。
立后の儀に参列したのは藤原実資(秋山竜次)・藤原隆家(竜星涼)・藤原懐平(かねひら)・藤原通任(みちとう)のたった4人。
劇中でも実資が語っていた通り、彼らは比較的公平だった(あるいは道長と距離をおいていた)メンバーです。
ただ通任は藤原娍子の弟で、姉の伝手によって源道方(みちかた)を追い抜く出世ぶりでした。
しかし藤原娍子たちの父・藤原済時(なりとき)は長徳元年(995年)の疫病大流行で亡くなっており、後ろ盾がありません。
一方で藤原妍子は後ろ盾こそ十分ながら皇女しか生まれず、両派の争いは微妙なところでした。
【皇后・皇后娍子】皇子はいる/寵愛されている/後ろ盾がない
【中宮・藤原妍子】皇子いない/寵愛は微妙/後ろ盾は協力
劇中では男狂いのように描かれていた妍子ですが、派手好きはともかく男狂いだったという記録は見当たらず、やりすぎではないでしょうか。
妍子のキャラクター設定が今後の展開に影響を及ぼすのか、今後も注目です。
三条天皇に入内した藤原道長の次女・藤原妍子とはどんな女性だったのか?【光る君へ】
道長に相次ぐ祟り?
人魂(イメージ)
比叡山に馬で登ったことで反感を買い、石を投げつけられた道長。それからと言うもの、ギャグのようにトラブル続きでした。
6月8日 人魂が出る(道長の魂が抜けた?)6月9日 トンビが道長の前にネズミの死骸を落とす6月10日 蛇が落ちてくる6月12日 道長を呪詛する各種の呪具が発見される6月17日 藤原為任(ためとう。娍子と通任の異母兄)が道長を呪詛しているという落書(らくしょ。匿名の手紙)が届けられる……これって絶対、道長が三条天皇一派を陥れるために自作自演してるでしょ?と感じずにはいられません。
自身の重病すら政敵を陥れるチャンスとして活かすとは、さすが道長ですね!
……いや、そもそも本当に道長が病気だったのかも疑わしく感じられます。すべてそうとは言わないものの、時によっては仮病を使っていたのかも知れませんね。
道長の病を喜ぶ怪文書
【光る君へ】ロクな未来が待ってない予感…「藤原通任(古舘佑太郎)」とはどんな人物?生涯をたどる
道長が重病に倒れ、それを喜ぶ者たちがいる……そんな怪文書が出回りました。
藤原道綱(上地雄輔)藤原実資藤原隆家藤原懐平藤原通任実資以下の4人は皇后娍子の立后に参列したため、三条天皇一派と疑われていたのでしょう。
こういう時は下手に騒ぐ(わざとらしくリアクションする)より、あえて平然と放置した方が利口です。劇中の実資と隆家はそうしていましたね。
一方で道綱は大いに狼狽え、土御門第(道長邸)まで押しかけて倫子にたしなめられていました。
道綱は腹違いとは言え、道長にとってここまで生き残った唯一の兄(※もう一人、異母兄の藤原道義は没年不詳)。道長の重病を喜ぶ理由はあるでしょうか。
もしあるとすれば、道長がいなくなることで大臣の座が空く≒自分が大臣になれることくらい。
実際に道綱は道長に対して「一度くらいは大臣になりたいから、短期間でもさせて欲しい(意訳)」と情けないことをお願いしています。
そこまでしてなりたいものかね……と思いますが、大納言どまりでは耐えられない現場の空気があったのでしょう。
また三条天皇の春宮時代(即位前)から支えてきたため、三条天皇とそれなりに親しかったことも、噂の一因と考えられます。
実資が溺愛した「かぐや姫」藤原千古
愛娘を喪った悲しみ…カタブツ平安貴族・藤原実資が「かぐや姫」と呼んで愛した藤原千古。その名の理由は?
歳をとってから出来た子は可愛いと言いますが、50歳を過ぎた実資にとって藤原千古(ちふる)はまさにそれでした。
百乃(千野祐子。源頼定乳姉妹か)との間に生まれた千古は実資から溺愛され、「かぐや姫」と呼ばれたことはよく知られています。
可愛さのあまり実資は藤原資平らに対して
「私の財産はそのほとんどを千古に譲る。異議申し立ては認めない(意訳)」
と宣言するほどでした。
後に藤原兼頼(かねより。藤原頼宗の子)と結婚した千古は実資よりも早く亡くなってしまい、実資ら一族の財産はほとんど持って行かれてしまいます。
これが実資一族の没落につながっていくのでした。
果たして「かぐや姫」が今後も活躍するのか、楽しみに見守っていきましょう。
まひろの「雲隠」と宇治十帖
宇治川のほとりに建つ紫式部像。
「『光る君の物語』も、今や何の役にも立たない」
道長にそんなことを言われたからか、まひろはすっかり創作意欲を失ってしまったようです。
「雲隠」とだけ記した書き置きを残して内裏を去ってしまったのでした。
これが後に『源氏物語』第41帖「雲隠」となった……という解釈ですね。
光源氏の出家と最期が描かれたとされる本帖には本文がありません。
これは永い歳月を経て散佚してしまったのか、あるいは読者の想像に任せるためあえて書かなかったのか、諸説分かれるところです。皆様は、どう思いますか?
そして道長の重篤を知って宇治へ駆けつけ、(冗談半分でも)死ぬか生きるかと語り合い、再び生きる誓いを立てたのでした。
そんな宇治の地で着想を得たとされるのが、光源氏の死後に子孫たちの活躍を描いた、いわゆる「宇治十帖」。
第45帖「橋姫」から、第54帖「夢浮橋」の物語完結までを指します。
第45帖・橋姫(はしひめ)第46帖・椎本(しいがもと)第47帖・総角(あげまき)第48帖・早蕨(さわらび)第49帖・宿木(やどりぎ)第50帖・東屋(あづまや)第51帖・浮舟(うきふね)第52帖・蜻蛉(かげろふ)第53帖・手習(てならひ)第54帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)宇治十帖については、別の作者が書いたとする説もあるそうです。
ともあれ再び創作意欲が湧いたまひろ。彼女が生きている限り、道長は何度でも復活することでしょう。
第43回放送「輝きののちに」
三条天皇(木村達成)の暮らす内裏で度々火事が起こり、道長(柄本佑)は三条の政に対する天の怒りが原因だとして、譲位を迫る。しかし三条は頑として聞き入れず対立が深まる。その後、道長は三条のある異変を感じ取る。その頃、まひろ(吉高由里子)は皇太后・彰子(見上愛)に仕えながら、源氏物語の執筆を続ける中、越後から帰京した父・為時(岸谷五朗)と再会。さらに娘・賢子(南沙良)から恋愛の相談をされて…
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
まひろ成分を補充して元気いっぱい?の道長は、打って変わって病魔におかされつつある三条天皇へ反撃開始。
地位と権力にしがみつく暗君に対して、しつこく譲位を迫ります。
もう忘れていいと言われた約束だけど、ここで果たさなくちゃカッコ悪い。と思っているのかいないのか、自分の孫を皇位につけるまで、道長の闘いは続くのでした。
そんな中、賢子は双寿丸にフラれたのでしょうか?何だかぎこちない母娘の青春絵巻も繰り広げられるようです。
大河ドラマ「光る君へ」第43回放送「輝きののちに」次週も注目していきましょう!