がんになったIT経営者が直面した「葛藤と現実」
オーシャンブリッジの社長だった頃の高山さん。新オフィスに移転したお祝い(写真:高山さん提供)
IT企業オーシャンブリッジ創業者の高山知朗さんはどのように5度のがん闘病を乗り越えたのかーー。高山さんが実際に取り組んできた方法論を『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』より一部引用・再編集してお届けします。
2度のがん治療がもたらした深刻な体力低下
2011年に最初のがんである脳腫瘍の摘出手術と放射線治療と化学療法を受けて退院したときは、体力的なダメージはそれほど大きくはなく、2カ月ほどの自宅療養を経て、仕事に復帰しました(化学療法は退院後も通院で継続しました)。
しかし、2013年に2度目のがんである悪性リンパ腫の治療を終えて退院した後は、体重が10キロほど減り、脚力や体力が衰え、仕事をするどころか会社に行くのも難しい状況でした。身長176センチで体重46キロになってしまったので本当にガリガリで、脂肪も筋肉も大きく失われていました。
2度目の闘病で体重は10kg落ちた(写真:高山さん提供)
脚力は、床に座った状態から自分の足だけでは立ち上がれないほどに落ちていて、いつも窓枠や妻の体につかまって立ち上がっていました。家の階段は四つん這いになったり両手で手すりにつかまったりして上り下りするしかありません。2〜3分も歩くと足が疲れ、近所を散歩するのもままならない状態でした。
それでも一日でも早く会社に戻りたいと、自分なりに毎日ウォーキングなどのリハビリに努めました。
数カ月して、多少体力が回復してきたころ、週に1回くらいのペースでタクシーに乗って会社に顔を出せるようになりました。とにかく早く仕事に復帰したい、またビジネスを通じて社会に貢献したいと必死でした。
私が設立したオーシャンブリッジは、海外のIT企業が開発したソフトウェアをローカライズ(日本語化)して日本市場で販売し、サポートを提供するビジネスを手掛けており、大企業や官公庁、自治体など幅広いお客様を抱えて事業を展開していました。
お客様から「オーシャンブリッジさんのおかげで業務効率が上がりました!」といった喜びの声をいただくたびに、世の中に貢献できているという手応えを感じていました。海外と日本の「架け橋」としてのオーシャンブリッジの存在価値を実感することができました。
30歳で人生をかけて立ち上げたオーシャンブリッジという会社は、自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたのです。
起業した会社に戻りたいのに戻れない
しかし、リハビリを続けながら少しずつ会社に顔を出せるようになってしばらくすると、幹部社員から、
「高山さんがたまに会社に来て社員に指示を出すと現場が混乱します。100%働けるようになったら会社に戻ってきてください。それまでは会社は自分たちが守りますから、高山さんは療養に専念してください」
と言われてしまいます。
思いがけず老害の一歩手前、いや老害そのものになっていました。
そして、あるとき気づきました。ここからどんなにリハビリに励んだとしても70%程度まで回復するのがいいところではないか。100%、いや90%にすら戻すのは無理なのではないか、と。
つまり、もう以前のように仕事をすることはできないと悟ってしまったのです。
もはや経営者として以前のように自分が納得できるような働き方ができないのであれば、自分はどうすべきか。何カ月も悩みました。
そうして悩みに悩んだ結果、仕事も、経営者の立場も、そして会社そのものも手放すのが、自分にとっても会社にとっても一番よいという考えに至りました。
中途半端に会社にぶら下がり、創業者で大株主であるというだけで、大した仕事もせずに会社から給料を吸い上げるようなことはしたくありません。だったらきっぱりと会社から身を引こう、と思ったのです。
とは言え、自分のアイデンティティでもある会社を本当に手放せるのか。
そもそも自分の収入がなくなったら、家族3人でどうやって食べていくのか。
しかしある日、妻の言葉で目が覚めました。
「会社を売却したら、もう何もやらなくていいんじゃない? 私も仕事をしてるんだし。仮に働く必要がなくて、やりたいことだけやればいい状況になったとして、それでもどうしても仕事がやりたいのであれば仕事をすればいいけど、そうでないなら無理に何かをしようとする必要はないよ」
この言葉には衝撃を受けました。「そうか、何もしないという選択肢があったのか」と。
自分が勝手に縛られていた固定観念を初めて疑うことになりました。会社に固執せず、思い切って手放すことで、また新しい人生がひらけるかもしれない、と思うようになっていきました。
友人や先輩に相談しながら、会社の売却について具体的に検討し始めました。ベンチャー企業のM&Aの専門家を何人か紹介してもらって相談していきました。
会社は自分の子どもであり自分自身でもある
創業者にとって、自分が立ち上げた会社は自分の子どものようなものだとよく言われます。私にとってはアイデンティティ、つまり自分自身でもあります。
自分の子どもあるいは分身を安心して任せられる信頼できる買い手が現れるのか、当初は非常に不安に思っていました。実際、すぐに見つかるようなものではありませんでした。
それでも売却先を探し始めてから何カ月か経ったころ、幸いにして手を挙げてくれる会社がいくつか出てきました。その中に、オーシャンブリッジと近い市場で事業を展開していてベンチャーマインドも持った会社がありました。それが、現在のオーシャンブリッジの親会社である株式会社ノーチラス・テクノロジーズです。
話し合いを進めていくと、この会社はオーシャンブリッジの創業理念や価値観、カルチャー、そして人材を非常に尊重してくれていました。買収してからも自社に吸収合併することなく、グループ内の一社として、引き続き独立した企業として経営していく方針だといいます。
もちろんリストラなどすることはなく、会社としての個性を活かしつつ、グループ内でシナジーを生み出していくということです。売却の重要な条件として考えていた全社員の雇用の継続も約束してくれました。話し合いを重ねるごとに、ぜひこの会社にオーシャンブリッジの未来を託したい、という思いが強くなっていきました。
売却先候補との交渉と並行して、幹部社員の説得も続けました。当時、私はすでに会長に退いて、社長は後進に譲っていましたが、その社長をはじめ経営陣からすれば、経営体制が変わり上司が変わるM&Aには基本的に反対です。雇用が維持されるとは言え、自分たちの立場や仕事が変わるかもしれないと不安に思う気持ちもよく分かります。
彼らからは、自分たち経営陣による買収、つまりMBO(マネジメントバイアウト)の可能性を検討したいという申し出もありました。私は資金面や体制面等から現実的には難しいのではないかと思いながらも、彼らに対しては、社外へのM&Aと彼ら経営陣へのMBOの両方の売却条件を並べて比較し、最終的に判断することを伝えました。
よい売却先候補が見つかったとは言え、経営陣の反発とMBOの動きもあり、契約が締結されるまでは、不安が尽きませんでした。
交渉がまとまらなかったらどうしようという強い不安がありました。売却条件が折り合わなかったらどうするのか。デューデリジェンス(会社を買収する際にその対象企業の経営実態を調査すること)や社員面談の結果、相手先がM&Aを見送ると通知してきたらどうするのか。リスクは数え上げればたくさんあります。M&Aに反対だった役員の突然の退職など、売却交渉に影響しかねない出来事もありました。
しかし、売却交渉が頓挫すれば、自分が経営者を続けられなくなった以上、オーシャンブリッジと社員の将来、そして自分たち家族の将来も危ぶまれます。そうした不安で、両足が地中深く、奥の方に強く引っ張り込まれるような感覚が常にありました。いつも強い不安に苛まれていました。
人生最大の仕事をやり遂げ、最大の危機が訪れる
私の不安をよそに、M&Aの売却条件の最終交渉と契約書の修正は着実に進んでいきます。それまでの過程で経営陣からは具体的な買収計画の提示がなく、MBOは検討から外れていました。そして2017年1月31日、無事に最終契約書が締結されたのです。
大きな達成感と、それ以上に大きな安堵感があふれてきました。会社、社員、自分、家族。みんなの未来はこれで大丈夫だと思いました。
16年前の創業当時を思い出し、会社は設立するよりも売却するほうが難しいと思いました。その意味で、オーシャンブリッジの売却は、自分が人生においてやり遂げた一番大きな仕事だったと考えています。
そして、そのわずか3週間後、2月下旬に3度目のがんである急性骨髄性白血病が見つかったのです。
「どうしてこのタイミングで……」とやるせない思いがあふれました。
あまりにも非情すぎるのではないか。それまで2回のがん告知では感じたことのない感情でした。
(高山 知朗 : オーシャンブリッジ ファウンダー)