<平安時代のファッショントレンド>男子は「威風堂々」では女子は…。大陸文化を消化して日本的な「国風文化」「武家風」が成熟していくまで
大河ドラマ『光る君へ』で注目が集まる平安時代。ファッションデザイナーで服飾文化に詳しい高島克子さん(高は”はしごだか”)は「平安時代こそ、日本史上もっとも華麗なファッション文化が花開いた時期」だと指摘します。十二単(じゅうにひとえ)になった理由とは?なぜ床に引きずるほど長い袴を履いた?今回、平安時代の装いとその魅力を多角的に解説したその著書『イラストでみる 平安ファッションの世界』より紹介します。
【書影】〈光る君へ〉で注目の平安時代。ファッションや男性のメイクなど、現代に通じるに流行があった!ファッションデザイナーが読み解く『イラストで見る 平安ファッションの世界』
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「唐風」奈良からの脱出と謎多き2回の遷都
平安時代は延暦13(794)年、現在の京都(山城国やましろのくに)に遷都(せんと)としたことにより始まる。
時の桓武天皇(柏天皇かしわばらとも称す)はその10年前の延暦3(784)年に同じく山城国の長岡京に遷都している。
奈良からの遷都の理由はいくつかあった。仏教勢力から距離をとること、父・光仁(こうにん)天皇の代からの天智天皇流への皇統変化にともなう人心の一新。
また、桓武天皇の母方の百済(くだら)系渡来人氏族の和氏(やまとうじ)との関係が深い土地であった長岡京の水陸の交通が至便であったことなどが挙げられる。
長岡京には、平城京や平安京同様の都城もあったようだが、現在は京都府向日(むこう)市に長岡京跡が残るのみである。
では、桓武天皇はわずか10年でなぜ平安京に再遷都したのか?和気清麻呂(わけのきよまろ)の建議によるものとされているが、天災〈相次ぐ河川の氾濫(はんらん)〉や造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に関わる怨霊(おんりょう)への恐怖が原因だとする説が有力視されている。
10年間に2度もの遷都のために、国家財政が困窮したことはいうまでもない。また、官人達にとっても大きな負担であったに違いない。
延暦24(805)年には藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の進言もあり、桓武天皇は遷都前から行なっていた38年にわたる蝦夷征討(えみしせいとう)と平安京造営を停止したため、都城の外郭をなす羅城(らじょう)は未完成のままとなった。
桓武天皇はその後まもなく崩御(ほうぎょ)するが、天皇がこれらの大規模な造営を可能にできたのは、出自から天皇になる可能性が低く、青年期に官僚としての教育を受けていたことや、経験豊富な壮年期(45歳)での即位が背景にあると考えられる。
ファッションは奈良時代を引き継ぐ
時代も場所も変わったが、天皇が同じだったこともあり、服装は男女ともに平安時代前期は奈良時代とほぼ同様の唐風(とうふう)文化の色濃いスタイルであった。
その後も弘仁(こうにん)文化の代表的な人物でもある嵯峨(さが)天皇〈桓武天皇の第二皇嗣(こうし)〉に、舶来の文物への志向が強かったことも影響しているのだろう。
嵯峨天皇の弘仁年間(810〜24年)は唐風文化の全盛期で、建物の名前・朝会での儀礼・日常の衣服に至るまで唐風化されていったようだ。
奈良時代からすでに礼服(らいふく)・朝服(ちょうふく)などの儀式服や制服は唐制寄りだったが、ついに弘仁9(818)年には「天下の儀式、男女の衣服皆唐法に依(よ)れ」と日常の勤務服も全て唐風にするようにとの令が発せられた。
弘仁11(820)年には、天皇・皇后・皇太子の大礼服・中礼服なども唐制を参考にして定められた。
聖武天皇のときから即位や元旦(朝賀)の儀に着用されていた袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)が、明文化された。
天皇の中礼服は、黄櫨染衣(こうろぜんい)が定められ、現在はこの黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が即位の礼で着用されている。
また、即位後に行なわれる御一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)と悠紀(ゆき)・主基(すき)両殿の儀、および年中恒例の祭祀(さいし)中にて最も重い儀式である新嘗祭(にいなめさい)の時のみ用いられる御斎服(ごさいふく)があり、今上(きんじょう)天皇の即位の際の「悠紀殿供饌(きょうせん)の儀」でも着られている。
「国風」日本的なものが次々生まれる200年
寛平6(894)年、遣唐大使に任命された菅原道真は滅亡寸前の唐の混乱を見て、朝廷に遣唐使廃止を建議(けんぎ)した。
道真は危険を冒(お)かしてまで使節を送る必要性がないと判断したのではないかと推測される。
しかし中止は決定されたが、私貿易は続き、中国の文化の所産は「唐物(からもの)」としてもてはやされていた。
10世紀に入ると仮名文字が誕生し、住まいも唐風建築から徐々に日本の気候風土に適した(平安時代は平安温暖期で現代に近いほど暑かったとされる)寝殿造(しんでんづくり)建築に移り変わっていった。
10世紀前半頃まで、貴族達は唐風建築では中国や朝鮮のように靴・椅子・ベッドを使用していたが、10世紀半ば頃からは靴を脱いで上がり、床の上に畳を敷いて座ったり寝たりする現在の日本人と同様の生活様式に変わっていく。
また、朝廷の儀式も大極殿(だいごくでん)や豊楽院(ぶらくいん)で行なわれず、和風建築の紫宸殿(ししんでん)や清涼殿(せいりょうでん)で行なわれるようになり、立礼(りつれい)よりも座礼(ざれい)に変わり、貴族の衣服も全体に大きくゆったりと長くなっていった。
このころから約200年にわたり、平安中後期の大陸文化を消化し、日本的な情緒にかなう優雅で洗練された文化が成熟していく。これを平安初期の「唐風文化」に対し、「国風文化」という。
藤原摂関家の全盛、かな文字の普及による女流文学の発達など、まさに平安時代の中核を担った文化である。
男女とも正装が簡略化される
まず男性が朝廷に出仕するときに着用する朝服が大きく寛容になり、形を整えて束帯(そくたい/天皇以下の公家男子の正装)として成立し、承平(じょうへい)6(936)年の『九条殿記』ごろから登場したとされる。
束帯には縫腋の袍(ほうえきのほう/脇の縫ってある有襴(うらん)の袍)の文官用束帯と闕腋袍(けってきのほう/脇を縫い合わせていない袍)の武官用束帯の2種類があり、文官の束帯の構成は垂纓冠(すいえんのかん)・縫腋袍・半臂(はんぴ)・下襲(したがさね)・重袙(かさねあこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口袴(おおぐちばかま)・襪(しとうず)・靴・石帯(せきたい)・笏(しゃく)である。
これに対して女性の束帯にあたるのが女房装束(唐衣裳装束/からぎぬもしょうぞく)で、宮中の正装にあたる。
「武家風」武士の台頭と日宋貿易の莫大な利益
白河天皇は在位14年でわずか8歳の堀河天皇へ譲位後、白河上皇として「院政」を開始する。
これにより「薬子の変(平城太上天皇の変)」を教訓に、嵯峨天皇が823年の譲位後は内裏からも退き、現天皇が至高の権力を持つことを示したことが無意味にされてしまう。
その後も摂政関白制度は存続したが、幼帝が続いて天皇には実権のない状態が続いた。約100年間、政治が混沌とした院政時代が始まる。
ビジネスセンスのあった「平清盛」(写真提供:Photo AC)
前時代からの仏教信仰の普及により権力を持った寺院の僧侶(僧兵)や、軍事貴族として地方へ派遣された桓武平氏や清和源氏などが、任務終了後も土着して地方豪族と結び反乱を起こした。
また貴族・皇族間の利権争いなども続いていく。
永保(えいほ)3(1083)年から寛治(かんじ)元(1087)年の後三年の役(ごさんねんのえき)〈永承(えいしょう)6〔1051〕年から康平(こうへい)5〔1062〕年の前九年の役(ぜんくねんのえき)を受けてこう呼ばれる〉では、この戦いにより源義家の支援を得た藤原(清原)清衡(きよひら)が陸奥(みちのく)での実権を握った。
その子・基衡(もとひら)、孫・秀衡(ひでひら)の三代は、約100年にわたり奥州の支配者となる。
また、白河上皇は嘉保(かほう)2(1095)年に、院御所の北面で院の警衛にあたる北面の武士を設置する。
比較的下位(四〜六位)の者を任命し、上皇に直属させて院政を支える武力としたため、結果的に武士の中央進出の契機になったとされる。
ビジネスセンスのあった平清盛
その後、12世紀に入ると、義家の二男・源義親(よしちか)の乱が起こり、嘉承元(1108)年に平正盛(まさもり)によって鎮圧される。
この功により、伊勢平氏は急速に力を伸ばし、子の忠盛、孫の清盛を経て源氏をしのぐようになった。
さらに保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱と反乱が続く中、絶大な権勢を握ったのが、白河法皇崩御後に院政をとった鳥羽上皇に活用された武士の棟梁(とうりょう)・平清盛である。
平清盛は武門の棟梁でありながら、日宋貿易でも実利をあげる広い視野を持っていた。平治の乱で棟梁の源義朝(よしとも/頼朝・義経の父)を失った源氏は弱体化し、勝利した平清盛が平氏政権を築く事になる。
そして永暦元(1160)年、参議に任官されて武士で初めて公卿となり、後白河上皇の信任を得て、仁安2(1167)年、ついに太政(だじょう)大臣にまで登り詰める。
その後、天皇家とも外戚関係を結び、藤原氏のような貴族政権を踏襲する。だが、一つ大きな違いがあった。
ビジネスセンスも持ち合わせた清盛は日宋貿易で宋銭を大量に輸入し、日本経済にも大きな影響を与えるほど、莫大な利益を上げた。その利益が後宮にも回っていたのであろう。
公家女房達のファッションは、武士の力が中央政治を動かし始めた11世紀末から12世紀末に至る100年の間は、服装の面でも最も絢爛豪華(けんらんごうか)な時代となった。
公家女房装束が異様なまでに飾られ、身につけて居ならぶばかりでなく、邸内の装飾としてまで装束を用いるようになったのである。
※本稿は『イラストでみる 平安ファッションの世界』(有隣堂)の一部を再編集したものです。