日本人初のメジャーリーガー村上雅則は「誰も行かないでほしいと思っていた」60年前にアメリカで成功できた秘訣

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日本人メジャーリーとして初めてメジャーリーグのマウンドに立った、“マッシー村上”こと村上雅則さん。

契約トラブルに見舞われながらも2年間、アメリカで過ごし、メジャーリーグの歴史に名前を刻んだ。

9人の日本人メジャーリーガーの異国の地での挑戦と戦いをまとめた、長谷川晶一さんの著書『海を渡る サムライの球跡(きゅうせき)』(扶桑社)から一部抜粋・再編集して紹介する。

日本人は「返事ができない」

「マッシー村上」がアメリカの地で躍動してから、すでに60年が経過した。

60年である。当時二十歳になったばかりの若者は、すでに傘寿を迎えていた。

穏やかな表情で当時の思い出を語る村上に尋ねたのは、「どうしてあなたはすぐにメジャーリーグに、いや、アメリカ社会に順応できたのですか?」ということだった。

質問を聞き終わると、逡巡することなく村上は答えた。

「日本人って、返事ができない人種なんですよね……」

続く言葉を待った。

「……イエスかノーかを答える前に、“ちょっと上司に確認します”となる。日本のプロ野球のコミッショナー会議を見ていていつも思うけど、オーナー本人が出てこないで《代行》や《代理》の人間が会議に参加して、その場で判断することなく、“一度、持ち帰って検討します”となる。

一体、何しに来ているんだと。それは、プロ野球界だけじゃなくて、一般社会も同じ。その点、私なんかは平気で自分の考えを口にした。バスの中でも、平気でスパナを持ち出して相手を問い詰めるぐらいだったから(笑)」

引退後に起きた気持ちの変化

村上が海を渡って30年が経過した1995(平成7)年、ついに野茂英雄がメジャーリーガーとなった。

野茂の挑戦をきっかけとして、その後はイチロー、松井秀喜、松坂大輔ら、次々と日本のトップ選手が海を渡った。

そして、それは現在のダルビッシュ有、吉田正尚、山本由伸、そして大谷翔平へと連綿と続いている。

野茂が渡米するまでの30年間、村上はどんな思いだったのか?

「日本に戻ってきてから、南海ホークス、阪神タイガース、日本ハムファイターズでプレーを続け、38歳のときに現役を引退しました。

現役を続けている間は、“誰もメジャーに行かないでほしい”と思っていました。でも、現役晩年を迎え、引退が近づいてくる頃になると、“そろそろ誰かアメリカに行かないかな”という思いになり、むしろ“行ってほしい”と考えるようになりました。

自分でも理由はわかりません。でも、私だけでなく、後輩たちにもあの経験を味わってほしい。そんな思いになっていました」

しかし、村上が引退した後も、しばらくの間「日本人メジャーリーガー」は誕生しなかった。

元号が昭和から平成に変わってもなお、村上は先駆者であり続けたのだ。

アメリカでの成功に必要な精神力

現在では数多くの日本人メジャーリーガーが誕生している。

ある者は大きな成功を収め、ある者は日本での輝きを発揮することができずに悔しい思いを抱いたまま帰国することとなった。

改めて村上に問う。

――アメリカで成功する人と、そうでない人との違いはどこにあるのですか?

この問いに関しても村上の言葉に迷いはなかった。

「野球の実力が大切なのは当然のこととして、それ以上に精神的なものが大きいと思います。やっぱり、文化の異なる生活の中に自ら積極的に入っていけるかどうか?

私なんて、“入るな”って言われても、どんどん入っていっちゃうタイプだったから(笑)。そこで大切なのは言葉。私の場合は通訳なんていなかったけど、それでも会話の中に積極的に入っていった……」

それまで、笑顔を交えながら楽しそうに受け答えしていた村上の表情が引き締まる。口調にも熱が帯びてくる。

 

「……もしも内容がわからなかったら、首をひねりながら“What you say?”なんて言ってみる。そうするとわかりやすい言葉で置き換えて話してもらえる。

毎日しゃべっていると少しずつ単語も覚えてくる。まずは単語を2つ並べてみる。次に3つ並べてみる。そうすると、だんだん深い内容の会話もできるようになってくる。

文法なんか気にしなくていい。主語や述語なんて意識しなくていい。その気概が大切なんじゃないのかな?」

今もなお残る志半ばで帰国した悔しさ

村上が渡米したのは、第二次世界大戦の終結から20年が経過する頃だった。

日本では、高度経済成長が本格化し、世界で確たる地位を築きつつある頃だ。まだまだ日本人の地位は低かった。1ドル360円という経済格差もあった。

そうした中で、成人する前に単身で海を渡り、独力で生き抜いたのが村上だった。さまざまな不安に押し潰されそうになる中で、彼は自分の左腕で居場所を作り上げた。

アメリカから帰国してしばらくした頃、世話になっている人物に招かれて夕食をともにした。このとき、「何か歌を歌ってくれないか」と頼まれた村上が静かに口ずさむ。

「I left my heart in San Francisco……」

トニー・ベネットが歌って62年に大ヒットした曲である。邦題は『想い出のサンフランシスコ』。歌っているうちに村上の頬を涙が伝う。

海を渡った青年は、アメリカでの手応えをつかんでいた。けれども、志半ばで帰国することになった。実力不足や故障のためではない。「まだまだ自分は成長できる」という手応えを覚えていただけに悔しかった。無念だった。すでに80代を迎えた村上は言う。

「あのときの私には、ああするしかなかった。鶴岡さんを恨んではいません。入団時の約束をきちんと守ってくれたんですから。ただね……」

一拍おいて、村上はつぶやいた。

「……ただ、あのときもしも鶴岡さんが、“よし、わかった。お前が納得するまでアメリカで頑張ってこい!”って言ってくれていたら、私はどんな人生を歩んでいたのかな、そう考えることはしばしばありましたね……」

感情のこもったひと言が静かに響き渡った――。