“マッシー村上”こと日本人初メジャーリーガー・村上雅則が切り開いたアメリカへの道。期待膨らむ中で起きた2年目のトラブル

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1964年春、19歳のときに“野球留学”として、アメリカに渡ったのが、当時南海ホークス入団2年目だった村上雅則さん。

のちに「マッシー村上」として親しまれ、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下1Aで活躍し、日本人として初めてメジャーリーグのマウンドに立った。

戦後から20年経っていたが、当時はまだ日本人への偏見も残っていた。

9人の日本人メジャーリーガーの異国の地での挑戦と戦いをまとめた、長谷川晶一さんの著書『海を渡る サムライの球跡(きゅうせき)』(扶桑社)から一部抜粋・再編集して紹介する。

監督の下に届いた脅迫状

村上のメジャー昇格後、ハーマン・フランクス監督の下には脅迫状が届いていたという。

この年のシーズン終盤、ジャイアンツとドジャースとの間で激しい争いが繰り広げられていた。村上は特にドジャース戦を得意としていた。

「後に聞いたところによると、“ムラカミを起用したら、貴様を殺す”という脅迫を受けていたそうです。ロサンゼルスからの投函ということで、僕らがロスに遠征した際には、僕の身辺ではFBIが身辺警護に当たっていたと聞きました」

もちろん、何事も起こることなく、村上も、フランクス監督も無事だった。

「私に心配をかけないように、ずっと内緒にして平然としていた監督には本当に感謝しています。熱心なドジャースファンだったのか、それとも反日家による単なる嫌がらせだったのかはわからないですけど、フランクス監督は本当に立派でした」

メジャー昇格以来、濃密な時間を過ごしていた。

ドジャースとの一戦では大乱闘も経験した。翌年オープンする、世界初となる屋根付き球場「アストロドーム」の建設現場も見学した。

見るもの聞くものすべてが刺激的な毎日を送る中で、ついに「その日」が訪れた。

日本人初メジャー勝利投手の誕生

64年9月29日――。

本拠地のキャンドルスティック・パークで迎えたヒューストン・コルト45’sとの一戦だ。

翌年からはアストロドームが完成し、チーム名もアストロズと改称されることになる、その前年のことである。

4対4で迎えた9回に村上はマウンドに上がった。息詰まる場面ではあったが、村上に緊張はなかった。9回、10回、11回とイニングが進んでいく。

3イニングで打たれたヒットは1本のみ。ほぼ完璧と言っていい内容だった。そして11回裏、マティ・アルーのサヨナラホームランでチームは勝利した。

見事なサヨナラ勝利であり、チームにいい流れをもたらしたのが村上の好投だった。ちなみにアルーは後に来日し、太平洋クラブライオンズ入りを果たすことになる。

「メジャー初登板のことも印象深いけど、この初勝利も忘れられない瞬間ですよ。アルーはこの年、1本しかホームランを打っていない。でも、その1本が私にとって、生涯忘れられない喜びをもたらしてくれました。あれは本当に嬉しかった」

サヨナラホームランだったため、ウイニングボールを手にすることはできなかった。

それでも、脳裏に刻まれたあの白球の弾道は、60年が経過してもなおありありと思い描くことができる。

村上にとっての記念ボールは、心の中にハッキリと記憶されている。こうして、「日本人初のメジャーリーガー」は、「日本人初のメジャー勝利投手」となった。

アメリカ暮らしに膨らむ期待

この年、9試合に投げて1勝1セーブ、防御率1.80でシーズンを終えた。

シーズン終了後には、ジャイアンツの指示によりアリゾナで行われるウインター・リーグへの参加も決まった。

日本からはホークスの先輩である西村省三と、アリゾナ州フェニックスでアパート暮らしをしながら、課題であるスクリューボールの精度を上げるべく、さらに熱心に取り組んだ。

 

この頃には球団の厚意で日本人家庭教師の下で英語の勉強にも励んでいる。「さらに英語力を磨いて、来年はますます活躍するぞ」という意気込みの表れだった。

「サンフランシスコでの生活も楽しかったけれど、フェニックスでの生活もとても楽しいものでした。完全に野球シーズンは終わったので、すぐに日本に帰ってもいいんだけど、“このままアメリカに残っているのも悪くないな”なんて考えていました」

アメリカでの暮らしは何から何まで楽しかった。村上は、ますますアメリカが好きになっていた。さらなる飛躍が期待される2年目に向けて、気力が充実していた。

しかし――。

ここから村上は思わぬトラブルに見舞われてしまう。日米両コミッショナーを巻き込む一大事が勃発するのである。

日米を股にかけた「村上争奪戦」

最初のきっかけは故郷・山梨で待つ家族たちからの「早く帰ってこい」という国際電話だった。

長男の動向を心配しての連絡だと思っていたものの、それにしては深刻、かつ切実な口調が気になった。やがて村上は事情を察する。

「アメリカでは日本の様子はまったくわからないし、身柄を一任していたキャピー原田さんも“心配しなくていい”の一点張りだったので、詳しい事情はよくわからなかった。

けれども、どうやら、“なぜ、村上は戻ってこないのか?”と問題になっているらしいということを知りました。それで慌てて日本に戻ることにしたのが、もう12月に入った頃のことでした」

日系アメリカ人で日米野球界に精通していたキャピー原田と鶴岡監督は旧知の間柄であり、キャピーの弟は大阪球場内に事務所を置く会社の社員であった。

そうした関係から、アメリカにおける村上の後見人役を任じていたのがキャピーだった。

村上にとって、およそ10カ月ぶりの帰国となった。出発前と比べて、明らかに自分を取り巻く環境が変化していることはすぐに理解できた。

メジャー初登板、あるいはメジャー初勝利のときには、10月10日に予定されていた東京五輪直前ということで、村上の偉業が大きく報じられることはなかった。

いや、そもそも「日本人初のメジャーリーガー」ということが、どれだけの偉業なのかをきちんと理解している者も少なかった。

事態が変わった村上の「二重契約」

しかし、事情は大きく変化した。

「南海からは“キャピー君の言うことを聞いていればいいから”と言われていました。アメリカ滞在中のある日、キャピーさんからは、“ずっとこっちでプレーしていてもいいぞ”と言われたこともありました。シーズンが終わってからは、“来年もここでプレーしてもいいぞ”と言われていました……」

帰国直前のことだ。事情を探るべく、村上は日本に国際電話をかけた。受話器の向こうは南海ホークスの球団常務である。

「指定された番号にかけてみると、電話の向こうは明らかに飲み屋でした。こちらとしては詳しい事情を知りたいのに、常務は“いいから帰ってこい、とにかく帰ってこい”の一点張りでした。わざわざ国際電話をかけているのに、何も説明がないことで信頼がなくなってしまいましたね」

ホークスから依頼を受けていた代理人の指示に従って、アメリカ2年目の契約に村上がサインをしたことで事態が変わった。いわゆる「二重契約」となってしまったのだ。

ホークスサイドは当初のプラン通り、「あくまでも野球留学」というスタンスだった一方、ジャイアンツサイドは「すでにトレードマネーを南海に支払い済みだ」と強硬に主張する。

「確かにジャイアンツから南海サイドに1万ドルのお金は渡っていたんですけど、南海サイドはあくまでも一種の功労金のようなものとして理解していました。

でも、ジャイアンツサイドとしては、“すでに移籍契約は成立している”と主張しました。その結果、私自身は身動きの取れない状況となってしまったのです……」

ホークス側も、ジャイアンツ側もまったく譲らない。日米を股にかけた「村上争奪戦」は収まる気配がなかった。