「見ているうちに涙が出てくる」…伝説のストリッパー・一条さゆりのショーに秘められた「芸の真髄」

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。そんな人生を歩んだ彼女を人気漫才師中田カウス・ボタンのカウスが「今あるのは彼女のおかげ」とまで慕うのはいったいなぜか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第15回

『「わいせつな感覚は微塵もなかった」…伝説のストリッパーの「引退公演」で見られた異様な光景』より続く

惹きつけられた役者

劇場全体を異空間に変える一条の芸に、ほれ込んだ者は少なくない。役者の小沢昭一もその一人だ。彼女の舞台を繰り返し見て、楽屋で本人にインタビューしている。彼女をテレビに出演させ、公然わいせつの罪で収監された一条を刑務所に訪ねた。

一条が亡くなった後、私は小沢に二度、インタビューしている。彼女の芸について、小沢はこう語った。

「私はもう、どんどん忘れていくたちでございまして、ここんところ特に昔のことを忘れるんでございますが、最初は一条さんのプロダクション関係者に引き合わせてもらったんじゃないかと思います。一条さんの一番盛りのころです」

小沢は1929(昭和4)年、東京に生まれた。早稲田大学文学部を卒業し、俳優座養成所を経て、役者となり映画に出演し、自ら劇団を結成して芝居に打ち込んだ。

恐ろしい玄人芸

古今東西の演芸に詳しく、注目すべき本も書いている。演劇研究家としてフィールド・ワークを重視し、65(昭和40)年ごろから放浪芸について全国各地で聞き取り調査をしていた。ちょうど一条が脚光を浴びはじめたころにあたる。

「そのころ、いろいろと芸能探索みたいなことをやっていましたから、大阪のストリップに関心を持ったんだと思います。ストリップは戦後すぐに浅草で見ておりました。大阪から来たストリッパーのなかになかなか素晴らしい人もいたもんですから、なんとなくストリップは大阪が盛んなんだなという印象がありまして。

それに、大阪の表現はいつも、こう先駆的といいますか、警察のほうからいうと、けしからんということなんでしょうけど。そういうことがあったもんですから、ストリップは大阪をよく見ないといけないと思いました」

小沢はストリップを放浪芸の一つととらえていた。一条は当時、その芸における頂点に立っていた。小沢は彼女の舞台を何度も見た経験から、その芸をこう評価した。

「素晴らしい目眩ましだなと思って、これぞ芸の一つの真髄を究極的に表していると思った。僕らの仕事っていうのは、フィクションの仕事ですから、言葉は悪いですが、だましの技術、だましの芸とでもいいますか。

だますという言葉は一般的には悪い言葉ですが、我々にしてみると、それによってお客さんを感動させる、喜ばせる。それが我々の仕事なんで、そういう虚構を作り上げる仕事人としては一流だと思って、とても尊敬しました」

小沢は最も尊敬している人物として演出家の千田是也を挙げている。そして、その千田と並ぶほど一条を尊敬していた。

「日常性に反発し、タブーに挑戦し、怨霊のごとく、菩薩のごとく、虚と実の間をつかず離れず移ろう芸なんです。私はまったくわいせつとは思わなかった。彼女の優しさ、慈しみが伝わる芸です。だから見ているうちに涙が出てくる。恐ろしい玄人です。同じ芸に携わる者として完全に負けたと思いました。嫉妬していました」

「わいせつな感覚は微塵もなかった」…伝説のストリッパーの「引退公演」で見られた異様な光景