「GMがOKか?って」猛虎で愛された“神様バースの後継者” 元阪神フィルダーが語った日本での転機「文化が違っていた」

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圧巻の勝負強さで阪神ファンからも愛されたフィルダー。(C)産経新聞社

日本で覚醒した「荒熊」

 記録よりも記憶に残る助っ人はいる。かつて阪神に在籍していたセシル・フィルダーは、まさにそういう選手だった。

 在籍期間はわずか1年。それでもフィルダーのインパクトは特大だ。1989年に出場機会を求め、鳴り物入りで阪神に入団したフィルダーは、「荒熊」の異名を授かるパワフルな打撃を発揮。フォーム改造によって変化球にも対応できるようになり、出場106試合で38本塁打、81打点、長打率.628、OPS1.031とハイアベレージを叩き出した。

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 その後、契約交渉がまとまらずにわずか1年で退団となったフィルダー。翌90年にはデトロイトに本拠を構えるタイガースでメジャー復帰すると、いきなり51本塁打、132打点で2冠王に輝いた。

 そんなレジェンドにとって日本での1年は貴重な経験になった。米ポッドキャスト番組『The Brett Boone Podcast』に出演したフィルダーは、阪神に移籍する前のブルージェイズでの4年間を次のように回想している。

「トロントに行った時、チームには素晴らしいアスリートがたくさんいた。ウィリー・アップショーと私、そしてフレッド・マグリフ(MLB通算493発を放つ)がいたし、そしてジョン・オルルド(1993年の首位打者)もメジャー昇格を待っていたところだった。この4人はなかなかいい選手だった」

 メジャー屈指の実力者が居並んだライバルとの競争下で、阪神からのオファーが舞い込んだ。フィルダーは、タテジマに袖を通すことになった当時の舞台裏も明かしている。

「今までの最高の動きはパット・ギリック(当時のGM)が私に電話をかけ、『日本に行くのはOKか?』と話をしてくれたことだろうね。あれは最高だった。なぜなら、彼は私に『もし、君がこのままここ(ブルージェイズ)に残れば、状況は変わらない。与えられる打席数は(シーズンで)170〜175くらいになるだろう。フレッドがいるし、ジョンも(マイナーから)上がってくるんだ』と教えてくれたんだ。だから私は『YESだ。日本に行く準備はできているよ』となったんだ」

現役引退後は独立リーグやリトルリーグなどの指導も行っているフィルダー。今もその顔には当時の面影が残る。(C)Getty Images

「骨折がなければ、50発は打っていたと思う」

 そうして日本行きを決断したフィルダー。だが、環境の違いから当初は苦労も絶えなかったという。「出だしは苦しんだ。なぜなら文化がまったく違っていたからね。私はそこに1人でいて、家族もまだいなかったんだ」と明かす。

 それでも「打撃面で自信が揺らぐことなかった」という名助っ人は、こう続けている。

「私はいつでもいい打撃をしてきた。だから、打撃で何かが問題になったことは全くない。日常的にプレーさえできれば、うまく行くことはわかっていた。だから384打席で38本塁打も打てたんだ。シーズン途中に手を骨折してしまったからそこでシーズン終了となってしまったけど、もし、怪我もなく出場し続けていれば、50発は打っていたと思う」

 猛虎ファンが「神様」と称するランディ・バースが88年に退団。さらに「ミスタータイガース」の掛布雅之も電撃的に退団し89年に入団し、“神様”の背番号44を継承したフィルダー。期待が大きく膨れ上がった中で、覚醒した彼の存在は色褪せない。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]