衝撃! 能登半島地震で明らかになった「日本には砂上の町が多い」という現実と「全国で液状化被害が起こる」可能性

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かくして「巨大地震注意」は発表された

2024年8月6日、宮崎県日向灘地震の直後「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が出た翌日の午後8時少し前、東京では最大で震度4の地震があった。

私の身内は都内を走行中の通勤電車内にいたが緊急停車、乗客全員のスマホの「緊急地震速報」が車内に鳴り響きパニック状態に陥ったという。私も「ついに来たか」と身震いしたが、ニュース速報で震源が神奈川県西部と知り、「海溝型のプレート地震=南海トラフ地震の震源帯」ではなく、陸域地震とわかり少しホッとした(震度5弱、マグニチュード5.3)。

宮崎県日向灘地震発生後、気象庁の会見で「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を伝えたのは、南海トラフ地震の評価検討会会長の平田直さん(東京大名誉教授)だった。その平田さんは、わずか4日前、政府の地震調査委員会の会長として、能登半島沿岸を含む日本海の新たな25の活断層の「長期評価」を公開した。その会見で平田さんは、この活断層の評価作業の公開が、能登半島地震の発生に間に合わなかった無念さを語っていた。

その平田さんが、4日後に、このシステムが2017年に始まってから初となる「南海トラフの巨大地震注意」を発表したのは、能登半島地震の評価が間に合わなかったことの無念さがあったからかもしれない。

巨大地震への関心が一気に大きくなった2024年の夏ゆえ、今、年初に見舞った巨大地震=能登半島地震では何が起こったのかをより深く知っておく意味は大きい。

「複合災害」の恐ろしさ

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の直後から、私が何度も訪ねてきた研究拠点が、東北大学災害科学国際研究所(IRDeS)だ。津波研究の第一人者である今村文彦さん(津波工学部教授)は、2024年1月1日、自宅近くの公園で孫を遊ばせていた。活断層の専門家、遠田晋次さん(災害評価・低減研究部門、陸域地震学・火山学研究分野教授)は、仙台市内のジムで汗を流していた。

震度階級では最大の震度7、能登半島地震発生の報せを受けた2人は、即、東北大学青葉山キャンパスにある研究所に駆けつけた。能登半島地震は、明治以降、近代的な地震観測開始以来、陸域で発生した最大規模の地震だけに、IRDeSでは総力をあげてこの巨大地震の解析を開始した。

能登半島地震では、土砂崩れ、津波、火災、地盤隆起などさまざまな現象、被害が発生した。そこで、この地震被害の多様性について、数日間にわたる現地調査を行った遠田さんに、あらためて詳しい話を聞いた。

筆者・山根(以下、山根)遠田さんが現地調査を行ったのは2月に入ってからだったそうですね。

遠田私の専門は活断層ですが、能登半島地震では兵庫県南部地震での淡路島や熊本地震の益城町のように地表に断層面が出現した場所はなかったため、現地調査を急ぐ必要はなかったからです。また道路事情から「緊急車両以外の通行は避けるように」という要請にしたがい、現地調査を控えていたこともあります。そのため現地調査はおよそ2ヶ月後になったんです。

山根多くの地震災害現場を調査してこられた遠田さんが、能登半島調査でとりわけ感じたことは?

遠田多種多様な現象、被害が重なった「複合災害」だという点です。強い揺れによる家屋の倒壊や土砂崩れ被害が大きく、土地の液状化、津波、大規模火災、地盤の隆起など地震で起こり得る被害要素がこれほど多く見られた地震はあまり例がないです。石川県内では148人の命が失われましたが(8月7日、石川県発表、災害関連死11人を含む)、同じ規模の地震が都市部で発生していたらはるかに大きな被害があってもおかしくないほどの巨大地震でした。

復興を困難にする「液状化」「側方流動」

山根現地調査した遠田さんの一番の驚きは「液状化」だったそうですね。

遠田液状化は、新潟県や富山県でも発生しましたが、金沢市からクルマで20分、わずか十数キロほど北、海岸沿いの内灘町の液状化被害は報道では一部しかわかりませんでした。しかし、現地を調査してその大きさに驚きました。内灘町は、奥能登の震源からは約100kmも離れた金沢市のすぐ先ですが、地区によっては液状化で家屋の大半が傾き壊れていました。

遠田さんによれば、道路が大きくうねり電柱や家屋が傾いているのは、地下の浅い部分の「砂」が流動化し、その上部の地盤が横にスライドした「側方流動」ゆえという。

遠田大きな段差がある場所や隆起した場所がありましたが、これも断層ではなく液状化で地盤が沈み、横移動(流動)した結果です。「側方流動」と呼ぶ現象です。 自動車が沈んで車庫から出られなくなっているのは、液状化した砂が水のようになったため比重が大きいものを支えられなくなったからでしょう。

砂丘の上に造成された町

遠田火山の火口のように砂が盛り上がっているのは、大きな揺れが続いたため液状化した砂が吹き出した現象です。道路からマンホールが突き出ているのは、中空で比重の軽いマンホールが液状化で浮き上がったことを物語っています。

遠田内灘町は奥能登の震源から約100kmも離れているのに、広い範囲で液状化の被害が出たのは、砂丘の上に造成された町だからです。さらに、そのそばには河北潟を埋め立てた土地もあり、地下水位が高いのも特徴です。

常に水に浸っていた砂丘や造成時の埋め立て砂が液状化したのだと思われます。東北地方太平洋沖地震では千葉県浦安市の舞浜などで液状化による被害がありましたが、ここの被害は舞浜の比ではない印象で、どう復興するのかと考えさせられました。

砂丘の上に町を作るなどということがあるのだろうか…。

内灘町のホームページを見たところ、「光あふれる砂丘のまち 内灘」がキャッチフレーズで、「昭和30年代後半から高度経済成長期にかけては、県営住宅の建設や土地区画整理事業の実施によって、砂丘地において本格的な新しいまちづくりが行われました」と記している。確かに砂丘の上の町だった。

では、内灘町はなぜ、そのリスクがある砂丘の上に町を作ったのだろうか。

金沢市のベッドタウンとして発展

その経緯を詳しく報告した、43年前の論文が見つかった。

金沢大学教授だった五味武臣さんの論文『高度経済成長期以降における内灘砂丘の変貌』(金沢大学教育学紀要第30号、1981年)によればこうだ。

内灘町は長さ約10km、幅約1.5kmの砂丘の大半を占め、町域の約80%が砂丘の上にある。

1953年、未利用の国有地(砂地)約4000haが米軍試射場になったが、1957年に返還。跡地を農地にする計画があったが中断、一転、住宅団地の造成が盛んに行われるようになった。

内灘町は金沢市に近いことから、金沢市の人口急増の受け皿としてベッドタウン化した。

1959年〜1961年、最初の砂丘上の住宅地造成に対して「砂上の楼閣」として危ぶむ声もあったが、安全性を担保する工事が行われ宅地が進んだ。

「金沢市都市計画区域」の指定のもと石川県住宅供給公社が住宅団地を造成。

1968年頃からは地元の区画整理組合が宅地化を進めた。

こうして住宅都市が砂丘の上に造成されたが、宅地造成開始からおよそ60年後、巨大地震により砂丘上ゆえの大きな被害を蒙ったことになる。

砂丘地の有効利用の歴史

内灘町の「砂丘上の町」は特殊なケースではなかった。そのことは、まだ砂地上の都市開発が進んでいなかった時代の古い論文で知ることができる。『日本の海岸砂丘の形態的分類並に土地利用』(田邉健一、1941年・昭和16、地理学評論17巻)はその一例だ。

宮城教育大学名誉教授、東北大学名誉教授だった田邉健一さん(1917〜1985)は、この論文の序論で、こう記している。

我が國の海岸砂丘は極めて豊富に存在し,從つて考へ得べき殆どすべての砂丘形態を有ち、 又その土地利用に至つては諸外國に全くその例を見ない程美事なものである。

砂丘の有効土地利用は広範囲に行われてきたことだった。

もっともその砂丘の土地利用は農業が中心であって、田邉さんはそのための土地改良の努力や見事さを序論で記した感がある。

この論文には内灘村(現・内灘町)の2万5000分の1の地図が収載されているが、戦前、内灘村の住宅地は砂丘で隔てられた河北潟の畔にごくわずかあるだけだったことがわかる。

日本列島のいたるところにあった「砂丘」

また、田邉さんは、全国の海岸沿いの砂丘、砂嘴(さし・沿岸流で砂地が嘴のように出た地形)、陸繋島(りくけいとう・砂によって陸地とつながった島)の地図を掲載しており、日本列島のいたるところに「砂丘」、砂地がある(あった)ことがわかる。

現在はこの地図で記した砂地の多くが、内灘町のように住宅地や工業地帯として利用されているはずだ。と、すれば、今は見えない「地盤の砂地」分布を徹底して調べ出し、巨大地震による液状化対策を行うべきと思う。

工場勤務者の住宅地として

日本は国土の61%が山地で、利用可能な平地は13万平方キロメートルしかない。そのため多くの都市圏では、戦後、人口増に対応する住宅地が不足した。そこで、災害のリスクがある砂地に住宅都市を造成せざるを得なかった。それは、内灘町が、国、県、町の住宅都市開発計画にしたがって住宅都市を形成していったのと同じ事情だったはずだ。

砂地ではないが、私は、2018年7月の西日本豪雨で、死者55人、住家被全壊4645棟、半壊847棟、一部損壊368棟という大きな被害が出た岡山県倉敷市真備町の取材をしている。真備町では、高梁川と合流する小田川が氾濫、洪水に見舞われた。この合流点エリアは明治期以前から氾濫を繰り返しており、災害のリスクが大きいことが知られていた。にもかかわらず、なぜここに住宅地が造成されたのか。

現地を取材し、また倉敷市で真備町の歴史を調べてわかった。

戦後造成され急拡大した岡山県の水島臨海工業地帯(水島コンビナート)では、工場勤務者の住宅地が不足。その解消策として、クルマで30分圏の真備町の未利用地が注目され、宅地が造成されたのだ。

洪水の犠牲者は、かつて水島コンビナートで高度経済成長を支えた高齢者が多かったようだ。

強靭化工事の費用は国、県などの自治体が行うべき

砂地や洪水のリスクがある宅地での地震や豪雨による人的被害は、歴史的、社会的な要素が小さくないことを、「内灘町の液状化被害」は物語っている。

今後も、巨大地震によって内灘町のような液状化被害を蒙る地域は少なくないはずで、住宅やインフラの「耐震」ならぬ「耐流」対策を真剣に考えるべきだが、個人、高齢世帯には対策工事の負担は大きすぎる。

だが、その住民の多くは近隣都市や工業地帯の主役として国の経済成長に貢献してきた人たちなのだ。宅地も「国、県、自治体の都市計画によって用意された場所」が多い。大規模な液状化被害は想定外かもしれないが、その復興や将来に備えての強靭化工事の費用は、宅地造成の経緯から国、県、自治体が担うべきではないか。

東京湾岸でも「砂地」ではないが軟弱地盤の上に多くの建造物が作られてきた。埋め立て地である浦安市舞浜では「3.11」の際、液状化被害が起こった。

このエリアは旧江戸川河口の軟弱地盤だが、同じ舞浜住宅地に隣接する東京ディズニーランドでは「3.11」では液状化被害はなかった。土地造成の際、地盤を堅固にする徹底した工事を行っていたからというが、能登半島地震級の大きな揺れが連続した場合はだいじょうなのか、心配は拭えない。

東京湾岸では、「砂」ではなく、泥よりも水分量が多い東京湾の「浚渫ヘドロ」で造成した場所がある。

1993年に拡張工事を終えオープンした羽田新空港だ。その人工地盤は当初、学会で「羽田マヨネーズ層」と呼ばれた(マヨネーズ業界の抗議を受け「お汁粉状」と呼ぶようになったが)。そのヘドロ埋立地は、世界でも例がない高度土木技術(バーチカルドレーン工法)によって水抜きが行われ、1000年はかかる地盤堅牢化をわずか1年でなしとげている(参考「ヘドロを埋め立てた羽田の新空港」『文庫版・メタルカラーの時代2』山根一眞、1998年・小学館)。

液状化のリスクがある地盤でも、日本にはその被害を小さくする高度土木技術がある。国、自治体はリスクの大きいエリアに絞ってでも対策工事を進めるべきだ。

ちなみに、空港は巨大地震の救援復旧に必須のインフラゆえ、能登半島地震級の巨大地震でも羽田空港の損害がないことを祈りたい。

陸域地震でも「大きな津波」の可能性はある

さて、前出の遠田晋次さんは、能登半島地震の現地調査で「津波」の被害エリアの想像以上の大きさについても語っている。

遠田見附島(珠洲市宝立町鵜飼)は高さ28m、軍艦の形をした巨岩が海岸に向かってくるような形から「軍艦島」として知られる観光名所でしたが、地震によって南東側の半分が崩れてしまい、もはや「軍艦島」ではないと地元の方をがっかりさせています。

遠田その珠洲市宝立町の鵜飼、春日野の両地区ではおよそ30ヘクタール(約9万坪)が津波の被害を受け3名の方が亡くなりました。

現地調査では、海岸からかなり離れた住宅でも、海藻がひっかかっている部分から津波の高さが2mを超えていることが推測できました。

遠田ここから12kmほど北上した海岸線の蛸島町まで、壊滅的な津波被害が続いており東日本大震災の被災地のようでした。宝立町を含めて津波で亡くなった方は26人にのぼるとのことですが、息をのむほどの被害です。

【参考動画】

東北地方太平洋沖地震では津波による空前の被害があった。

8月8日の「巨大地震注意」が出た南海トラフ地震でも、津波による想定被害が最も大きい。

いずれも海域で起こる海溝型地震ゆえだが、能登半島地震のような「陸域地震」でも大きな津波被害があることは今後の大きな教訓になる。

なお遠田さんの著書、『活断層はどこまで予測できるか』(講談社・ブルーバックス)をあらためて精読したが、能登半島地震の現状を取材した後だけに、その緻密な内容に感服しています。

(続く)

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